――工業高校を卒業後、高専の4年次に編入されました。元から高専進学を考えていたのですか?
私の通っていた工業高校は当時、卒業後は就職する人がほとんど。私もそのまま町工場に就職して、職人になろうと考えていました。
でも、2年生の時に開発した電動車いすが高校生の科学技術コンテスト「高校生科学技術チャレンジ(JSEC)」で最高賞に選ばれ、授賞式の会場でノーベル物理学賞受賞者の小柴昌俊先生に「君は研究者になった方が良いよ」というようなことを言ってもらったんですね。ほかにも審査員を務めていた「研究者」と呼ばれている大学の先生たちと出会って、すごくかっこよく見えた。憧れになったんです。それまで職人に憧れていたのが、研究者もかっこいいなと。
もう一つは、日本の大会のあと、世界大会に出場したのですが、そこで「死ぬまでこれをやり続けたい」と命をかけて研究しているような世界の同世代の高校生たちとの出会いがありました。
じゃあ私の場合は何だろうと。考えて思い至ったのが、私が不登校だった小中学生のころに感じていた「孤独」を解消する研究がしたい、ということでした。これなら人生を捧げてもいいと思い、じゃあ研究者をめざして進学しようと考えました。
当時はまだインターネットも携帯電話も今のように普及していなかった時代です。人の縁はすぐ切れるし、ちょっとした変化で会えなくなってしまう。年に一回、年賀状などで人間関係を維持することって極めて非効率的。孤独の解消のための話し相手を人間に求めるのは、コスパが悪いなと思ったんですね。そこで、人を求めるのはやめよう。ならば人工知能だ、と思い、人工知能を研究しようと高専に進みました。
――初めて地元を離れての高専生活はどうでしたか?
結論から言うと、私には正直合わなかった。朝から夜まで研究室にこもって研究したかったのですが、寮は門限が厳しくて、毎晩10時には点呼がありました。人工知能の開発にばかり意識を向けていたので、友だちもできなかった。親元を離れて自分で着るものを選ぶようになって、自分でカスタマイズした「黒い白衣」を着ていたので、「あまり触れない方がいいやつ」と思われてあまり人が近づいてこなかったのもあるかもしれません。
工業高校より勉強も難しいし、友達もいないし、夜までこもってやりたかった研究をしたくても寮の門限が厳しいし……。つらいなぁと思っていたころ、mixi(ミクシー)などのサービスが普及し、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)という概念が誕生しました。
人の縁って、物理的な距離ができれば、切れるものだと思っていたけど、SNSなら直接やりとりをしていなくても、なんとなく、最近どうしているかがわかる。人間関係の(保存ができる)「冷蔵庫」のような、すごいものが登場したと思いました。
人工知能があれば友だちなんかいなくてもいい、と研究に没頭している一方で、夜な夜なミクシーやオンライン上のゲームで人と交流することを求めている自分にも気づきました。孤独の解消のために、自分が投げかけたものに打ち返してくるという人工知能のシステムを作っていたんですけど、何か違う、と思い始めたんです。
――どう「違うな」と感じたのでしょうか。
高専の先生が「人工知能は人を癒やします。それによって癒やされた人は幸せになります」と言うのを聞いて、すごく強烈に違和感を抱いたんですね。私自身、人を癒やすことに目的意識があって人工知能の勉強をしていて、その先生は、自分が思っていたのと同じことを代弁しているはずなのにです。
不登校だった私が学校に戻って勉強しようと思うきっかけになったのは、中学生のころに親が勝手に応募して参加したロボットコンテストで出会った、王寺工業高校の先生でした。この先生の弟子になりたい、という一心でした。
例えば、もし過去、私が不登校だったころに、人工知能の友だちロボットがいたとして、では今でも「師匠」と慕うこの先生に憧れたような、あるいは、私が研究の道に進もうと思うきっかけとなった小柴先生や世界の高校生と同じような出会いになるかと考えたら、たぶん違うな、と思ったんですね。出会いや憧れというものが人生をつくっている。人を傷つけるのも人ですが、人を癒やすのも人だと気づいたのです。
それで、人工知能もすごくおもしろいのだけど、どうしたら人とうまく出会えるか、視力を補うためにメガネが、脚力の代わりに車いすが、外国語力をカバーするために通訳機があるように、コミュニケーション能力の福祉機器をつくりたいと思い始めました。
人と人をつなぐコミュニケーションを助けて、関係性をつくっていく。人工知能じゃなくて人との関係性のツール、これが、孤独の解消の研究としては正解なんじゃないか、と思ったタイミングでした。
――高専入学の翌春、早稲田大学に進学されました。
自分が一生をかけてやりたいことはこれではないな、と思い始めたタイミングで、高校時代の科学コンテストで知り合ったプロデューサーと教授から、大学で研究しないかと声をかけてもらったんです。推薦入試を経て翌春、早稲田大学へ移りました。大学でも卒業にこだわりはなくて、結局、自分のやりたい研究をするために自分で研究室をつくりました。
――在学中に立ち上げた現在の「オリィ研究所」につながったんですね。高専での1年は、いま振り返ってみるとどんな時間でしたか?
すごく迷った時期でしたね。初めて親元を離れて暮らして、友だちと遊ぶでもなく、そもそも友だちを作れず、どう人工知能をつくったら、自分が孤独から癒やされるんだろうか、とひたすら考えることができた時間でした。しかし今思えば、それはすごく価値があったと思っています。
友だちもいないし、土日は学校の授業もない。情報工学科だというのに、当時はネットも全然つながらなくて、ヤフーのトップページを開くのに3分かかるような寮の環境でした。週末はやることがなくて、ひたすら海に行ってスケッチをしたり、人工知能と雑談するにはどうしたらいいんだろう、そもそも雑談て何だろう、友だちってなんだ……、と考えたりしていました。
高専の、海の見えるあの寮からひたすら海を眺めながら、住み着いた猫をなでつつ考え事をしていた。それはそれでいい、振り返ればすごく大切な時間でした。
――高専から大学への進学者は多いですが、工業高校と高専、大学で学んだ経験がある人は珍しいように思います。
工業高校と高専の両方を経験したという意味では、まれな例かもしれません。あくまでも私が通っていた学校の、当時の経験から感じたことですが、工業高校の方が自由な時間がたくさんありました。私の場合は熱心な先生に出会えたことも大きかった。朝から工場の機械を自由に使わせてもらえて、終電ギリギリまで作業をして、翌朝7時にはまた学校にいて……、という生活でした。
一方で、高専はカリキュラムがきっちり決まっていて、課題もレポートも多い。しっかり教育を受ける場所、という印象です。数学や専門分野だけでいうなら、早稲田大学の1、2年よりも高専4年の方がはるかに進んでいましたしね。
どちらが良い悪いではなくて、どれが自分に向いているか、その中で何をするかだと思います。
――いまの仕事で高専出身者との接点も多いと思います。当時とは違う視点で改めて高専について、どう思いますか?
うちの工業高校も謹慎処分を受けたり留年したりする人はいましたが、高専は学業不振で容赦なく留年するし、除籍されるし、卒業のハードルが高い印象ですね。卒業生たちは、要領を考えつつ、うまく創造性を発揮できるような柔軟さを持ち合わせています。手も動かせるし、アカデミックにものを考えられる。そんなハイブリッドな能力を、若いうちから身につけられる。かなり優秀な印象です。
私には合わなかった、…というより、時代のタイミングの問題でしょうか。
私の場合は、工業高校から高専へ進み、高専でゼミを選んで学ぶ中で、編入した理由が果たせないことを感じ、方向を変えることにして、大学に進むことにした。いくつかの選択を経た後に、目的を見つけて大学受験を迎えることができました。自分に何が向いているのか、臨機応変に動けるタイミングで選択できるということに、価値があったと思っています。
途中で編入し、中退した立場から後輩たちに言えることがあるとすれば、やったことや悩み苦しんだことは決して無駄にならないと伝えたいですね。色々な人に出会ったり、色んな時間や経験を積んだりして、自分に合う道を探し、次へ旅立つ。そんな選択肢の中に「高専」があってもいいんじゃないかと思いますよ。
よしふじ・おりぃ ロボット研究者。株式会社「オリィ研究所」代表。自身の不登校経験をもとに、「人間の孤独の解消」をめざして分身ロボット「OriHime」を開発。2021年グッドデザイン大賞受賞。同年6月には東京・日本橋に「分身ロボットカフェ」をオープンした。