■靴の中に点字ブロックを出したら?
いったいどんな風に動くのだろう。手のひらにのるほどの小さな装置を見て、なんだかわくわくした。
装置はセンサーが入った小さな箱と、柔らかいプラスチック素材でできている。箱状のものはスニーカーなどの靴ひもを結ぶ部分にとりつけ、小さなモーターを内蔵したプラスチック素材は中敷きのように靴の中に入れて使う。
自分の靴につけてしばらく歩くと、右側の足にブルッと振動を感じた。振動は3秒に1回。そのまま50メートル歩くと、今度は、振動の間隔が1秒に1回になり、ついにブルブルブルーッと断続的にふるえた。よし、ここで右折だ!
この装置は、目的地までの行き方を足に振動で知らせてくれる歩行ナビゲーションシステムだ。「意外とくすぐったくないでしょう、くせになるって言われます。柔らかい素材で作るのに苦労しました」。開発したベンチャー企業Ashirase(アシラセ)の千野歩さん(36)はそう話す。
連動するスマホアプリに行き先を入力すると、道順に応じて足の側面・甲に触れる小型モーターが振動する。右折なら右足、左折なら左足、直進なら両足の装置がブルブル振動し、その間隔によって履いている人に方向転換のタイミングや進行方向が伝わるしくみだ。主なユーザーと考えているのは視覚障害のある人たちだ。
千野さんはホンダの本田技術研究所で13年間、ハイブリッドや電気自動車(EV)の制御系モーター、自動運転システムの開発に携わってきた。自動車開発の「本丸」ともいえる部署だが、なぜ歩行のナビゲーションに関心が向かったのだろう。
目が不自由な人が歩くときの困難に、千野さんが思い至ったのは18年のことだ。妻の祖母が歩行中に足を踏み外し、川に転落して亡くなるという不幸な事故が起きた。「ホンダでずっと安全について考えながら自動車を開発してきたけれど、歩いていても安全ではない状況は単独で起きうる。歩行もモビリティーだと気がついた」
以前、路上の点字ブロックの上に自転車が駐輪され、視覚障害者が困っているというニュースを目にしたとき、千野さんはこんなアイデアをメモに残していた。「点字ブロックが地面から出てきたらいいんじゃないか」。同僚にアイデアを話すと、「地面から出すのは難しいんじゃないかな」。そして、ひらめいた。「じゃあ靴の中に点字ブロックを出したら?」
■ナビを体のどこにつけるか
それから栃木県内の視覚障害者センターの協力をあおぎ、休日などに、視覚障害のある様々な人と話をするようになった。視覚障害者といっても、全盲の人や夜盲症の人、光を感じる人と感じない人など状態はそれぞれ異なる。でも、共通して、たびたび耳にする言葉があった。「新しい所に行くのはあきらめています」。あまりにさらりと言う様子に千野さんは驚いた。そして思った、自分に何かできることがあるんじゃないか。
振動を使った「仮想足裏点字ブロック」を考え始めたのは19年末のこと。形にするのは容易ではなかった。目の不自由な人は歩くとき、全身を使って情報をキャッチしようとしている。足裏は歩行中に路面の点字ブロックや段差を感じるとても重要な部位で、新たな機能をつけるわけにはいかないと気がついた。
方向を指示する機能を顔のまわりにつけることも考えたが、耳で音を聞く邪魔をしかねない。「焼き肉屋さんのにおいがしたら右折する」と話す人もおり、においを方向指示に使うことも考えたが、現実的ではなかった。腰に振動を伝えるベルトのアイデアもあったが、いったん外すと見つけにくいのがネックだ。
最後に残った部位が足の甲だった。よく履く靴に装置を着けておけば、いちいち取り外す必要もない。モーターやセンサーは四輪車で培った技術を生かし、アイデアを形にした。
千野さんはホンダの新事業創出プログラムで起業するベンチャー企業の第1号として、昨年6月に株式会社Ashiraseを立ち上げた。歩行ナビ「あしらせ」は22年度中に、個人や施設向けに販売を目指している。
■まさか宇宙を目指すとは
ホンダは昨年9月、これから事業展開に力を入れる新領域について発表した。空間を移動する「電動垂直離着陸機」や「アバターロボット(分身ロボ)」の開発とともに表明したのが、「宇宙領域」への進出だ。
目指すのは月だ。月面で得られる太陽光や水などを用いる、循環型の再生エネルギーシステムを構築しようとしている。開発責任者をつとめるのは本田技術研究所の針生栄次さん(43)。大学で化学工学を専攻し、ホンダでは燃料電池車に水素を供給する水素ステーションに用いる「高圧水電解システム」の開発に携わってきた。ホンダに入社した時、まさか宇宙を目指すことになるとは「思ってもいなかった」。
針生さんが携わってきたのは水を電気分解して水素を製造、貯蔵し、発電などに使う技術だ。従来は低圧の水素ガスを昇圧させるために機械式のコンプレッサーを使う必要があった。だが、針生さんは水素の圧力を、燃料電池自動車に満充塡(じゅうてん)するために必要な70MPa(70メガパスカル=700気圧)以上の高圧域にまで、電気化学的に昇圧させる技術を開発。コンプレッサーが不要になり、装置を小型・軽量化できるうえ、エネルギーのロスも減らすことができた。
この技術は宇宙でも生かせると気づいたのは18年のことだ。近年、アメリカのSpaceXが民間企業として有人宇宙飛行を成功させ、無人月面探査を表明した日本のスタートアップ企業ispaceは「2040年には1000人が月面に暮らし、1万人が訪問する」との構想を明らかにするなど、宇宙開発に注目が集まっている。
もし人が生活するのに必要な水などを地球から運べば、そのコストは膨大だ。地球から月に重さ1キロのものを運ぶためにかかる経費は約1億円とも言われる。月面で手に入る太陽光や水を効率良く使ってエネルギーにし、水も再利用するという目標に向かって、国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)と共同研究を続けている。
宇宙では水もエネルギーも地球上よりさらに手に入りにくく、貴重だ。「宇宙では一滴の水も漏らさず再利用するぐらい高効率の技術が求められるし、機器の耐久性や信頼性もさらに高める必要がある」。針生さんは宇宙空間への挑戦が、地球で使われている技術の進歩にもつながると考えている。
■第2の創業って何
宇宙にまで飛び出すホンダ。「第2の創業」という言葉の意味を、針生さんはこんなふうにとらえている。「非常に重い言葉、今までのままじゃダメなんだということだと思う」と話し、こう続けた。「ただ変わるだけでなく、人の役にたつという、創業の原点を忘れるなということだと思います」
創業者の本田宗一郎氏が、自転車をこぎやすくする補助エンジンを作ったのは、「食料の買い出しに行く妻の苦労を見かねてのことだった」というエピソードがある。これが、バイクや自動車づくりのおおもとになるエンジン開発のきっかけになった。「Z世代と呼ばれる若い人たちの間では自動車を所有することの価値は薄れてきている。でも移動は必要不可欠。本当に必要なのはエネルギーなんじゃないか。自由な移動の喜びにサステイナビリティーを持たせることに貢献する、それが私自身の夢でもあります」
Ashiraseの千野さんは「第2の創業」をこう理解している。「どの会社でも、仕事がつまらないなと思えてしまったり、枠にはまった『サラリーマン』の働きかたに慣れて、気づいたら周りに『いつもちょっと変なことを考えているやつ』が少なくなっていたり、ということがあると思う。ホンダが世の中から期待されることを実現していくには、違うところにマインドをもっていける人を多くしていこうという意味もあるのかな」
型や枠にはまることなく、面白いこと、役に立つことをどんどんやっていこう。その合言葉が「第2の創業」ということなのかもしれない。
起業してから、千野さんは午後7時~9時を家族と過ごす時間にするようになった。その後、気がつけば朝の5時半まで仕事に没頭していることもある。これまでならできなかったことを、いま夢中でやっている。