外気温36度。拭いても拭いても額の汗が止まらない。6月28日、私はギザ台地に鎮座するクフ王のピラミッドの足元にある、大型の仮設テントの中にいた。
テントが覆っているものは、長さ約33メートル、深さ約5メートルの「船坑」と呼ばれる穴だ。2013年6月から第2の船の部材の取り出しが行われ、20年末までにほぼ終わった。テント内はガランとし、船坑も木製のふたで覆われていた。
残っていた数点の部材を見せてもらった。焦げ茶色で表面にひびが入り、一部はボロボロに崩れていた。粘土の塊のようにも、大きなチョコレートのようにも見えた。
太陽の船は、古代エジプトで崇拝された太陽神ラーとクフ王の乗り物と考えられている。神様と王様が一緒に船に乗って永遠に天空を行ったり来たりすることで昼と夜が訪れる。古代エジプト人の宗教観を形にしたものだ。
頭の中で、全長40メートルの木造船が空に浮かぶ様子を想像する。子どもが描いた絵のようで、何だかほほ笑ましい。ギザ県の高校で歴史を教えるムハンマド・アトワンさん(48)は太陽の船について授業でよく話す。「エジプトで発見された傑出の遺物。悠久の歴史があるわが国の誇りです」
■忘れられた存在に日本が注目
最初に発見されたのは1954年。船坑の中に、解体された状態で収められていた。当時のエジプト考古局が2年かけて部材を取り出し、さらに14年かけて復元。82年に一般公開した。
発見者で名付け親のエジプト人技師、カマール・マラーハさんは当時から船がもうひとつ埋まっていると考えていた。だが、目にすることなく87年に世を去った。その後、調査されずに人々の記憶から忘れ去られた。それに注目したのは、エジプト考古学者で東日本国際大学総長(早稲田大学名誉教授)の吉村作治さん(78)だった。
66年9月に初めてエジプトを訪れ、クフ王のピラミッドでスケッチや写真撮影をしていた時のことだ。南側に回り込むと建物があり、太陽の船の復元作業が進んでいた。吉村さんはその場所が、ピラミッドから見て東側に寄っているのが気になった。西側に目をやると空き地になっており、砂の中からピラミッド建造当時の壁体が顔を出していた。
「古代エジプトの審美観は、二つのものが対称になっています。それを考えると、西側にもうひとつの船が埋まっているに違いないと考えました」
当時23歳。早大で美術史学を専攻していたが、休学してエジプト各地の遺跡の予備調査に参加していた。10歳のころ、ツタンカーメン王の墓を発見した英国の考古学者ハワード・カーターの発掘記を読み、エジプトに魅せられた。太陽の船というロマンチックな響きに心を奪われた。「必ずここを掘ろう」。そう胸に誓った。
それから20年後の87年2月。早大の調査隊を率いた吉村さんは、最新機器の電磁波探査レーダーをひっさげてピラミッドに戻ってきた。これを使えば、実際に掘らなくても地中の様子を知ることができる。第2の船が埋まっているとおぼしき場所を調べると、船坑の存在を示す波形がモニターに現れた。木の堆積物らしき反応もあった。
吉村さんは、発掘から復元まで行うプロジェクトを当時のエジプト考古庁に申請した。「木はいつか朽ちる。せっかくの遺物がなくなるのは嫌だった。ただ、そういうことよりも、面白そうだからやってみたい。そんな気持ちの方が強かった」と話す。
すると、米国の調査隊が87年10月、船坑を覆っていた石に穴を開けて内部を撮影し、部材の存在を確認した。日本と米国、どちらが発掘すべきか。エジプトを含めた駆け引きが始まった。考古庁長官だったアフマド・カドリさんの引き合わせで吉村さんと会った米国隊の関係者は「日本には技術も金もないだろう。米国が掘る」と言い放った。
だが、発掘を担うことになったのは吉村さんだった。カドリさんとの良好な人間関係が生きた。「エジプト人は人付き合いを大事にする。『最初に見つけたのは僕たちだ。掘らせて欲しい』とさりげなく伝えたところ、彼は『いいよ』と言ってくれた。こちらが気負っていたら、彼も身構えたかも知れませんが……」
カドリさんが90年に亡くなると、著名な考古学者ザヒ・ハワスさん(74)が吉村さんを後押しした。考古庁のギザ台地主任監督官だったハワスさんの立ち会いで、92〜93年に予備調査が行われた。米国隊が石に開けた小さな穴から部材の一部を取り出した。分析の結果、約4600年前のものであることが判明した。
ハワスさんは02年にエジプト考古最高評議会の事務局長に就任したが、吉村さんに発掘させる方針を変えなかった。「日本の丁寧な仕事ぶりに期待した。米国の調査の結果、内部に虫がいるらしいことがわかった。放っておけば部材は朽ちてなくなってしまう。急がねばという思いがあった」とハワスさんは振り返る。
そのころエジプト政府内では、第2の船をよみがえらせて展示するという構想が持ち上がっていた。曲折はあったが、考古庁は10年、船坑の上にあった壁体の撤去を許可した。そして翌11年6月、船坑を覆っていた石の取り外しが始まった。吉村さんが申請したプロジェクトがようやく動き始めた。
石の大きさは、1枚がざっと縦5.5メートル、横1メートル、厚さ0.5メートル。それが40枚ほど並んでいた。日本から招いた石材職人の助言に従い、1枚ずつクレーンで引き上げた。1枚の重さは10〜15トン。2カ月近くかかった作業の末、岩盤をくりぬいた船坑が姿を現した。その底部に解体した部材があった。回収方法を検討し、13年6月から取り出しが始まった。
吉村さんは感無量だった。
■ニトリ会長、支援の手
プロジェクトを実現するため、金策に奔走した。協力してくれる企業はなかなか現れなかったが、家具販売大手ニトリホールディングスの似鳥昭雄会長(77)が、5億円の資金援助を約束。こうして、08年にNPO法人「太陽の船復原研究所」を立ち上げることができた。
「吉村先生がツタンカーメン王の墓を発見したハワード・カーターなら、私はカーターを支援したカーナボン卿になりましょう」。当時ニトリ社長だった似鳥会長の言葉を吉村は決して忘れない。
「スポンサーが見つからず、せっかく得た発掘権が期限切れになりそうとのことだった。(第2の船は)日本人によるエジプトの重要な新発見。ぜひ吉村先生に発掘していただきたい、後世に残していただきたい、と寄付することを決めた」と似鳥会長は話した。
エジプトと合同で進めるプロジェクトの現場主任は、東日本国際大学エジプト考古学研究所、黒河内宏昌教授(63)。早大で建築を専攻した黒河内さんはエジプト考古学の専門家ではない。だが、学生時代の指導教官が吉村さんと親しかった縁で、90年代初めからプロジェクトに携わっている。黒河内さんは「部材は傷みが進んでいた。そのまま持ち上げれば、バラバラと崩れてしまう。何よりも慎重さが求められた」と振り返った。
傷みが進んだ原因は、船坑に入り込んだ水と考えられた。カラカラに乾いたギザ台地ではあるが、ひとたび大雨が降れば、水浸しになることもある。
船坑の上に設置した昇降機を、部材すれすれまで下げる。作業する人はその床に腹ばいになり、まず部材に和紙を貼り付け、仮の強化措置を施した。それが済んだらトレーに移して引き上げる。小さな部材でも1日5点を取り出すのがせいぜいだった。長さ10メートルを超す部材は1〜2週間かかった。
テント内の作業場に持ち込んで和紙をはがし、アクリル樹脂を塗って強度を高めた。1点ずつ寸法を測り、レーザースキャナーを使って3次元データを蓄積した。7年にわたる地道な作業の末、13層に積み重なっていた約1700点の部材を取り上げた。
■発掘でわかった新たな事実
黒河内さんは、古代エジプト人の技術力に舌を巻いた。例えば甲板室の壁板。厚さは1センチほど。「表面はつるつるしていて、ほおずりしたくなるほど。使われたのこぎりやノミは、鉄ではなく銅だった。木材を薄く切るのは、実は難しい。奈良の正倉院にだって、これほどの薄板はないそうです」
部材の多くにレバノン杉が使われていた。約600キロも離れたレバノンからわざわざ取り寄せたのだろう。船の建造が国家的なプロジェクトだったことがうかがえる。
部材と部材をつなげる木釘は、広葉樹のアカシアだった。詳細な分析はまだ終わっていないが、用途に応じて木材を使い分けていたようだ。「石の文化」と思われがちな古代エジプトに、「木の文化」がしっかり根付いていたことを物語る。
取り出した部材は、「大エジプト博物館(GEM)保存修復センター」の倉庫で、1点ずつビニールに包まれて保管されている。関係者以外の立ち入りが厳しく禁じられ、倉庫内は温度20度、湿度50%の状態が保たれている。
これから部材を組み合わせて形にする大仕事が始まる。どれとどれを組み合わせたらいいのか。実物の10分の1の模型を作り、コンピューターを使ったシミュレーションを行ったうえで、21年度中に詳細な復元案をまとめる。
実際の作業はどのように進めるのだろうか。エジプト側の保存修復スーパーバイザー、アイーサ・ジダンさん(52)は「鉄骨で骨組みを作り、そこに部材を貼り合わせることになると思う。部材だけでは、とても強度が持たない」と説明した。「簡単にはいかないだろう。でも、こんな大規模な計画は世界でもめったにない」。プロジェクトに携わる誇りが、言葉ににじみ出る。作業の様子は、観光客も見学できるようにしたいという。完成は27年中を予定している。
これまでの作業で、興味深いことが明らかになった。船坑を覆っていた一部の石には、クフ王の名前と、息子であるジェドエフラー王の名前が記されていた。
そこから何が言えるのか。吉村さんは「23年間にわたったクフ王の在位期間の一部を、親子で統治した可能性を示している。権力者が共同統治した世界最古の例だろう」と話す。
太陽の船はなぜ2隻あったのか。2隻の大きさはほぼ同じだが、船を動かすオールの数が異なる。54年に発見された太陽の船は、7〜8メートルと長いものが12本。第2の船は、長い8本に加えて3〜4メートルと短いものが52本あった。さらに2隻とも、船首は西に向いていた。古代エジプトの世界観では、太陽が沈む西は「あの世」を意味する。
吉村さんは言う。「第2の船が『動力船』となり、神様と王様が乗った太陽の船を引っ張ったと解釈できる。偉い方が乗った船が自力で動くというのは考えられず、引っ張る船が必要だった。これこそが僕たちが見つけた第2の船。2隻セットで『太陽の船』と呼ぶことがわかった」
古代エジプトは水上交通が盛んだった。第2の船も実際に使われたのだろうか。「実際に使える船だったとは思う。でもいまのところ、川に浮かべた形跡は見つかっていない」。復元を進める過程で、新たな事実がわかるかもしれない。「思いもよらない新発見があるんじゃないかなと、ワクワクしています」
実はこのプロジェクトは、吉村さんが当初考えていたよりも、倍以上の時間がかかっている。政治の混乱が大きな理由だ。「政治の動きには逆らわない。作業をやめて、じっと待つ。だから遅れる」と吉村さんは言った。
第2の船の船坑を覆う石の取り外しが始まったのは11年6月。エジプトではその4カ月前、「アラブの春」による大規模な反政府デモを受け、30年間続いたムバラク独裁政権が崩壊した。
■相次ぐ反乱、日本への期待
それは波乱の幕開けだった。12年6月の大統領選で文民のムハンマド・ムルシ氏が当選したが、出身母体「ムスリム同胞団」への身びいきや経済対策への批判が高まり、大規模デモが再燃した。13年7月、軍部が介入してムルシ大統領を拘束。治安部隊は翌月、抗議の座り込みを続けていたムルシ大統領の支持者らを武力を使って排除し、多くの死傷者が出た。イスラム過激派によるテロも横行した。
国防相として13年の政変を率いたのは、現在のアブドルファッターハ・シーシ大統領だ。シーシ政権は同胞団を弾圧するとともに、人権活動家らを相次いで拘束。国際社会から非難された。一方で過激派の掃討を進め、治安と経済の立て直しに力を入れた。
アラブの春による政治的混乱で、エジプトの国内総生産(GDP)の1割以上を占める基幹産業である観光業も打撃を受けた。その後、混乱の収束で、19年にはエジプトを訪れた外国人は1306万人となり、過去最高だった10年に近い水準にまで回復した。ところが、新型コロナウイルスの世界的な流行で再び打撃を受け、20年は350万人にまで激減した。
今年9月6日。私は再びピラミッドを訪れた。観光客を乗せる馬車やラクダを扱う業者の表情はさえない。以前は日本人を見かけると、誰が最初に教えたのか「山本山!」と叫んで気を引いていたのに、威勢のいい声は聞こえない。観光客は300人ほど。コロナ前は1日5000人以上が訪れたギザ台地は、痛々しいほど閑散としていた。
「この2日間で、あんたが最初の客だよ」。御者のヤヒヤさん(54)は、しわだらけで日焼けした顔をほころばせた。馬のお尻に軽くムチを打つ。私を乗せた馬車は、ガタリと音を立てて走り出した。
稼げる日銭は、多くて300エジプトポンド(約2200円)ほど。コロナ前の3分の1以下だという。「革命やら政変やら、この10年間で観光客が減った時期は何度もあったけど、今が一番しんどい。収入の半分は馬のえさ代に消えるし。馬やラクダを手放した仲間も多い。47年間ここで商売しているけど、こんなの初めてだ」
エジプト政府が経済回復の切り札として期待を寄せるのが、大エジプト博物館(GEM)だ。ピラミッドと同じギザ台地で建設が進む。敷地面積は東京ドームの約10倍の47万平方メートル、展示面積は5万平方メートルと世界最大級だ。収蔵品数は10万点。約5000点に及ぶツタンカーメン王の遺物が目玉で、ゆくゆくは年間300万人の来場者を見込んでいる。
建設は12年に始まったが、政変やコロナ禍で完成は遅れた。政府は20年秋としていた開館目標を21年に延期したが、さらに遅れて、早くても来年中になりそうだ。来年はツタンカーメン王の墓が発見されてから100年の節目で、ちょうどいいタイミングだ。
GEMの玄関ホールには、高さ11メートルのラムセス2世像が据え付けられている。見上げるとその大きさに圧倒される。展示室に向かう大階段にも、古代エジプトのハトシェプスト女王などの像が並ぶ。展示品も少しずつ搬入され、開館の準備が進む。
8月6日夜。クフ王のピラミッド脇の施設で展示されていた太陽の船が、GEMへと約10時間かけて移送された。全長43.6メートル、幅5.7メートル、重さ約20トン。コンテナに収められた船は12軸の特殊な台車に載せられ、カフラー王のピラミッド前を通って幹線道路に出た。通行止めにされた大通りを時速600メートルで進んだ。
GEMの敷地内にある「太陽の船展示棟」はまだ骨組みの状態だったが、先に引っ越しを終えてしまった。ちぐはぐな感じもするが、展示棟の完成後に搬入しようとすると、船を一度解体しなければならないと知って合点がいった。
引っ越し作業は、保安上の理由で報道陣には公開されなかった。代わりにエジプト観光・考古省が提供した映像を見ると、何とも幻想的だった。側面に船の電飾をあしらった黒色のコンテナが、暗闇の中をしずしずと進む。まるで京都五山送り火のひとつ、「船形」でも見ているような気分になった。
こうした一連の事業について、日本は国際協力機構(JICA)を通じて支援している。①GEM建設で842億円の円借款供与②第2の太陽の船の復元支援③文化財の保存と修復やGEMの運営に携わる人材の育成、が主な3本柱だ。
第2の船以外の現場でも、エジプトと日本の関係は深まっている。例えば遺物の修復。エジプトでは英国やフランスなどの影響力が強い分野だが、日本とエジプトの専門家は、ツタンカーメン王の二輪馬車や儀礼用のベッドなど72点の遺物を合同で修復した。日本の遺跡に例えるなら、古代の天皇陵から見つかった出土品を外国人と一緒に修復するようなものだ。エジプト側の日本への信頼がなければ、あり得なかったに違いない。
日本の緻密な仕事ぶりも評価されている。私はかつて、古代エジプトの壁画を修復する現場を取材した。両国の専門家が、表面に付着した塩や泥をへらや超音波メスなどで取り除いていた。絵を傷つけないよう細心の注意が求められる作業だ。エジプト人の専門家は「きめ細かで、きちんと仕事をする日本のやり方を身につけたい」と話した。少し誇らしい気持ちになったのを覚えている。
はるか太古の昔。人類が何を考え、何をつくり、後世にどんな影響を与えたのか。古代エジプトの遺物は、そんなことを考える手がかりとなる「人類共通の遺産」だ。エジプトでこれまでに発掘された遺跡は、まだ全体の3〜4割にとどまるとの説もある。実際、古代の遺物や遺跡は今も日常的に見つかっている。
エジプト考古学の分野はまだわからないことが多い。その復元や保存修復を支える日本は、人類社会に多大な貢献をしていると言っていいだろう。大げさに思われるかも知れないが、ピラミッドの近くに暮らしている私には、この言い方が一番しっくりくる。
■ツタンカーメン王墓とハワード・カーター
古代エジプトの歴代ファラオ(王)で最も有名なのは、ツタンカーメン王だろう。
即位は紀元前1336年ごろ。約9年間統治し、18〜19歳で夭逝した。金沢大の河合望教授(53)によると、ツタンカーメンの父アクエンアテン王は、アテン神を唯一神とする宗教革命を断行し、国内が混乱した。「ツタンカーメンの治世は、伝統の多神教に戻し、政治と社会を安定させることが最重要課題だった」
ツタンカーメンの名を世に知らしめたのは、1922年にエジプト南部ルクソールの「王家の谷」で見つかった王墓だ。5000点以上の遺物が、ほぼ未盗掘の状態で残されていた。「黄金のマスク」は、三重になったひつぎのなかに納められていた。発見した英国の考古学者ハワード・カーターは、最も内側にあるひつぎのふたを開け、マスクをかぶったミイラと対面した時のことを、「ツタンカーメン発掘記」(ちくま学芸文庫)にこう記す。《かがやかしい、壮麗なともいえるほどの、磨きあげられた黄金のマスク、あるいは王の肖像が、頭と肩をおおっており(中略)打ち出しの黄金のマスクは、古代における美しい、ユニークな肖像の傑作で、若くして死に奪い去られた青春をしのばせる、悲しい、しかし、しずかな表情をたたえている》
カーターは39年、発掘報告書を書き上げる前に、ロンドンの自宅で亡くなった。64歳だった。河合さんは「しかし彼は、日誌や実測図をきちょうめんに書き残した。その貴重な生データの恩恵を今の研究者が受けている」と話す。
■今も続く文化財の盗掘
古代文明の発祥地エジプトでは、ナイル川流域のどこかを掘れば何かが出土すると言われる。このため、今でも遺物の盗掘が行われている。もちろん違法行為でおおっぴらにはできない。ではどうするか。民家の床下や人里離れた畑などをこっそり掘る。
かつて、カイロ郊外の農村にある民家の「盗掘現場」を取材したことがある。敷地面積は約200平方メートルで、中庭を6部屋が取り囲む構造だった。玄関脇にある8畳ほどの部屋を見せてもらった。窓はコンクリートで塞がれ、床は深さ8メートルほど掘り返されていた。土砂は隣の部屋に積んであった。家主(37)によると、盗掘に手を染めたきっかけは、訪ねてきた見知らぬ男にこう誘われたことだった。
「床下にファラオの墓がある。『ジン』の姿が見えるから間違いない。ぜひ掘らせてほしい。貴重なものが見つかれば高く売れる。分け前も与える」
ジンとは、イスラム世界の精霊のことだ。風呂、井戸、廃屋、墓地などに出現するとされる。人に幸福をもたらす場合もあるが、危害を加えれば病気などをもたらす。イスラム教の聖典コーランにも「(神は)陶土のような乾いた土から人間を創られ、また火の炎からジンを創られた」とあり、その存在はエジプトで広く信じられている。
2009〜15年に、7カ所の盗掘現場を渡り歩いたというタクシー運転手(34)は「どの現場でも、『ジンの姿が見える』と言う男がリーダー役だった。もっとも、価値ある遺物が出てきたためしは一度もなかったけどね」。
本当に見えるのかはともかく、ジンを信じる人々に付け入って、悪事を唆す者がいることは確かなようだ。