キリスト教徒が多く住む地区の小高い丘のうえに、病院はあった。緑に囲まれ、こぢんまりとしていて雰囲気はいい。病床数は65と小規模だが、内科、外科、耳鼻咽喉(いんこう)科などに加え、カイロプラクティックなどのセラピー療法も提供しているという。
正面玄関から入ると、左手に見舞客も食事ができるカフェテリアがあった。ピザ、パスタ、ハンバーガー……。日本のファミレスかと見まがうようなメニューにぎょっとする。表紙をよく見るとこう書いてあった。
〈ヴィーガンメニュー 2.0〉
すべて植物由来原料を使っているようだ。こう書き添えてある。
〈コレステロールと残酷性(クルエルティー) 全てゼロ〉
なるほど、動物の権利擁護の考え方が土台にあるのだな。まもなくグレーの短髪にジーパン姿の男性が姿を現した。病院の最高経営責任者(CEO)ジョージ・ハイエクさん(41)。シュッとしたスリムな体形で、健康に気を使っていることが一目でわかる。
率直に質問した。なぜヴィーガンになったのですか? 「大量に家畜を殺して肉を食べることが人間にとって必要なことではないからです」。そしてほほ笑みながらこう言った。「正しい問いかけはこうでしょう。なぜあなたはヴィーガンではないのですか?」
約10年前、牛がステーキ肉になる過程を伝えるソーシャルメディアの動画を見て、ヴィーガン食を実践するようになり、2014年にはレバノン初のヴィーガン団体を立ち上げた。
では病院食をヴィーガンに変えた理由も「動物愛護」なのだろうか。ハイエクさんは「それだけではない。病院として、あくまで科学に基づきました」と言う。
家業の病院を継いだ15年、あるニュースに目を見開いた。世界保健機関(WHO)が、ベーコンやソーセージなどの加工肉にたばこと同じ発がんリスクがあると指摘。牛や豚、鶏などの肉も「おそらく発がん性がある」と報告していた。「患者にたばこを渡す医者はいない。肉の提供をやめるのは当然の判断だと思った」
私は食肉とたばこの危険性をただちに同列にはできないと思うが、ハイエクさんは医師や看護師、調理師らと議論を重ね、昨年から患者がヴィーガン食も選べるようにし、今年3月からはヴィーガン食のみの提供を開始した。
中東にはヒヨコ豆が原料のフムスやファラフェルなどの料理があり、抵抗なく受け入れる患者も多いという。自ら代表を務めるヴィーガン団体の工場で作ったジャムなどの保存食品も使う。入院費も他の病院と変わらない。
昼すぎ、美容手術で入院中のミュリーン・マルキさん(60)に食事が運ばれてきた。「アーモンドミルクはちょっと苦手」「ではオーツ麦のミルクを用意しますよ」。自らは医師ではないが、ハイエクさんは毎日、患者と会話してヴィーガンの利点を説いている。
退院後もヴィーガンを続ける患者はいるのか。ハイエクさんは言った。「追跡調査はしていないのでわからないですが、それほど多くはないかもしれない。でも病院は肉を提供すべき場所ではないと知ってもらえたら、それで構いません」