2013年8月3日、当時25歳だったチェ・ブロックさんは、ワシントンのナイトクラブでいつものように警備員のシフトについた。バックではサム・クックの「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」が流れていた。そこへどこからともなく若い男性の集団が現れた。身長が2メートル近くもある大柄の男を先頭に、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。数えると12人いた。近づくと、見覚えのある顔に状況を察知した。逃げるという選択などない。「戦争の始まりだ」――。
突然テーブルの上に押し倒され、奥の壁に激突した。起き上がり12人を相手に戦おうとすると、他の警備員たちが加わり、たちまち大乱闘が始まった。殴り合いが続く中、1人が刃物を取り出しアッパーカットで攻撃を仕掛けてきた。混乱とアドレナリンが入り混じり、それまで何も感じなかったが、その男に反撃しようとした時だった。「突然体から力が抜け、殴ることができない。息もできない」
「到着したパトカーにもたれると、赤いペンキが塗られたように血が付いた。それを見て初めて自分が刺されたとわかった。歩道の上にうつ伏せに倒れ、体から血が流れ出ていくのを感じた」
その感覚を最後に意識を失い、ヘリコプターで病院へ搬送された。腕、首の後ろ、背中など、計13箇所を刺され、肺も損傷していた。それでも命が救われたのは「制服」のように毎日装着していた防弾チョッキのおかげだった。搬送中、緊急隊員に防弾チョッキを脱がされているところで、一瞬、意識を取り戻した。白かった「制服」が血で真っ赤に染まっているのが視界に入ったかと思うと、また意識が遠のいた。
■近所で銃声、10歳で見た遺体
ブロックさんは、首都ワシントンの南東区出身。黒人が多い区域として知られる。1歳の時に父親が銀行強盗で捕まり、20年の収監生活に。母親は精神疾患だったため、家族を養うことができなかった。ブロックさんは、兄と2人の妹とともに叔母と暮らした。
家賃が払えず、引越しを繰り返した。家に帰るとドアに立ち退き通知が貼られていたことが何度もあった。その度に「また追い出される」という焦りを子供ながらに感じた。近所にはよく銃声が響いた。初めて遺体を目撃したのは10歳の時。近所を歩いていると、若い黒人男性が道端に横たわっていた。「聞き慣れた銃声の果てにある『結末』を初めて知った」。時々帰ってくる母親が目の前で恋人から暴行を受け、引きずり回されたり指の骨を折られたりする様子を目撃した。
「いつも周りには暴力があった」
「幼い男の子のまま泣き寝入りするか。自分でお金を稼ぐ方法を見つけるか」。人生初の決断を自身に迫った末に後者を選択した。こうして13歳で麻薬の売人となった。
「食べるものを買いたかった」。目的は明確だったため、売るための麻薬に手を出すようなことは決してなかった。最初は大麻しか売らせてもらえなかったが、だんだんコカインやヘロインを扱うようになり、17歳になる頃には3カ月で約20万ドル(約2千2百万円)を稼いだこともあった。
だが、仕事にはいつもリスクがつきまとった。他の麻薬ディーラーとの些細なけんかや縄張り争いが命を狙われる事態に繋がることもあった。13回刺された事件も、きっかけは他の密売人との小競り合いだった。
傷が癒え、退院してまもなく、自宅に一本の電話が入った。「大学教授が話をしたいらしい」と電話を受けた叔母は言った。「刑事か。または自分の命を狙う者の罠か」。2つの可能性が頭をよぎった。しばらく迷っていると、子供の頃よく耳にした「チャンスが来たら掴め」という叔父の言葉をふと思い出した。それがチャンスなのかは分からない。チャンスどころか罠かもしれないという疑念を抱きつつも、返答してみることにした。
■生まれて初めて受けた質問
必死に連絡をとろうとしていたのは、メリーランド州立大学で黒人研究や銃の暴力の予防に従事する社会学者、ジョセフ・リチャードソン教授(52歳)だった。特に黒人の若者が繰り返し暴力の対象となることから、リチャードソン教授は銃や刃物などによる重傷を複数回経験した黒人男性を25人集め、暴力に巻き込まれる原因と背景を研究しようとしていた。
対面場所には、あえて病院という公共の場を選んだ。いつものように銃と防弾チョッキを装備して出かけた。警察が待っているか。誰かに殺されるか。異常なまでに疑心暗鬼になっていた。待ち合わせに姿を見せたリチャードソン教授が開口一番こう尋ねた。
「自分の人生で何がしたい?」
答えが全く出てこなかった。「一度もそのような質問をされたことがなかった。人生で何かを達成できると教わったこともなかった」
■リチャードソン教授の約束
リチャードソン教授の話を聞くうちに、自分と同じ境遇にある黒人の若者たちを助けたいと思うようになった。数日後、メリーランド大学の教室で、100人もの学生の前に立った。人生のストーリーを生徒と共有するようにと、リチャードソン教授から黒人研究の授業に招かれた。生徒たちはおしゃべりなどを一切せず耳を傾けてくれた。自分の話を真剣に聞いてもらう喜びと今までと違う新しい環境に心を躍らせた。
「まるで生まれ変わったかのようだった」
自分に特別なものを見いだしてくれたリチャードソン教授のために、約束を破ることなく毎回オフィスに足を運んでは、様々なアイディアを提案した。プログラムの参加者を大学に連れてくれば、大学の様子を垣間見ることで進学を志望する人が出てくるのではないかというアイディアも取り入れられた。リチャードソン教授は、「出会ってすぐ長年の友人のような気がしてならなかった」と話し、一つの約束をしてくれた。「プログラムを正式に立ち上げる時は、真っ先に君を雇う」
■現実に引き戻され
しかし、過去から抜け出すことは簡単ではなかった。大学の教壇で話し終え帰宅する時だった。キャンパスを出て約30分後、自宅近くのハイウェイで猛スピードで追いかけてくる車両があった。その車が運転席の斜め後ろに来るやいなや、助手席の窓から覗く銃口がサイドミラーに写った。その銃が「TEC9」と呼ばれる黒い自動拳銃だとわかるほどに至近距離だった。次の瞬間、銃声が連続して響き渡った。
次々に窓が割れ、車のあちこちに穴が開いていく。ダッシュボードにあった自分の銃を掴んだものの、飛んでくる銃弾を避ける勢いで手から滑り落ちた。次の瞬間、弾の一つが腕を貫通した。火傷のような熱さを感じたかと思うと、けいれんを起こしそうなほどに激しく重い痛みが続いた。
「殺される……」と思いながら、銃弾から逃げるように必死で運転を続け、次の出口で急ハンドルを切ってハイウェイを降りた。合計11箇所撃たれた車は、エンジンにも弾が命中していたため、その場で廃車となった。「現実に引きずり戻されたかのようだった」
心が揺れた。「自分を殺そうとした人に復讐するか。事件のことを忘れて前に進むか」。数日後、混乱状態に陥り、気づくと自分の命を狙ったと思われる人物の家の前にいた。どうしたらいいか考えていたその時、携帯電話が鳴った。「話したいことがあるから大学に来てくれないか?」。リチャードソン教授からだった。すぐさまその場を立ち去った。「リチャードソン教授が私の命を救った」
リチャードソン教授が自分の住居スペースを提供し、大学などでの講演の機会を持ちかけては毎回講演料を支払ってくれた。この時、自分を狙った人物への復讐の思いを断ち切り、リチャードソン教授についていくことを決意した。決してお金のためではなかった。麻薬を売っていた時の方がはるかに稼いでいたが、生まれて初めて心から好きと思える仕事を見つけた。
「あの電話がなかったら、俺はどうなっていたかわからない」(つづく)