ベルリンの広告代理店に勤めるドーラは36歳。コロナ発生で感染対策の鬼となった恋人から外出を禁じられたのがとどめとなり、田舎の家へ逃げてきた。数年前から環境問題にのめりこむ恋人に「正しい生活」を強要されることに息苦しさを感じて、こっそり購入していた古い家だ。
不便でも、コロナでピリピリする人のいない環境に安らぎを感じるドーラ。ところが、ゴーテという隣人が「俺は村のナチだ」との自己紹介とともに現れ、理想の田園生活は崩壊する。リベラル都会人にとってネオナチは異星人、絶対悪だ。だがゴーテは車のないドーラをスーパーに連れだしたり、家具を作ってくれたりと、無愛想ながら親切な隣人だ。とはいえ、彼が移民をののしるのも、傷害事件で服役したのも事実。ナチからの親切は受けられない、ゴーテを説得して正道に戻すべきか。葛藤しながらも、ドーラは徐々に現実と折り合いをつけていく。そんなある日、無人の田舎道で事故を起こし、気を失ったゴーテを見つけて――。
著者ユーリ・ツェーは娯楽性と文学性を兼ね備えた骨太な小説を書く、ドイツ最大の人気作家のひとり。3月の刊行以来大ベストセラーの本書で描かれるのは、レッテルを貼らず、評価を下さず、人が人をそのまま受け止めることの難しさと美しさだ。
ドーラの新しい我が家はベルリンから車で1時間ほどでありながら、まったくの別世界。人種差別ジョークを連発する男、右翼政党支持のゲイカップルといった村人たちは皆、政治や社会が決める「正しさ」とは別の次元に生きている。一方、都会に住むドーラの家族も現実社会の縮図だ。コロナ規制を守らない市民を馬鹿だとののしる裕福な専業主夫の弟、逆に社会のコロナヒステリーを批判する医師の父。
タイトルの『Uber Menschen』は素直に読めば「人について」だが、本書では「人を上から見下す」というニュアンスが強い。「私はあんたよりずっと上等な人間なんだから!」。ドーラが思わずゴーテに放つ一言に、読者も息をのむ。自分の正しさを確信するあまり他者にそれを押し付けていないか。正しさを共有しない人を見下し、排斥していないか。現代ドイツ社会が抱える深刻な問題をえぐり出した、紛れもない傑作。筆者にとって今年のベスト小説になりそうだ。
■社会が決める「正しさ」とは無縁の人たち
『人の上で』に続いて、『Daheim(我が家)』もひとりの女性が新しい人生へと踏み出す話だ。
主人公の「わたし」は、子育てを終えたある年の早春、離婚して北の海辺の小さな家に引っ越し、弟のザーシャが経営するバーで働き始める。これまでさまざまな女性と付き合いながら独身を通してきたザーシャは、娘ほども年の離れた二十歳のニケに絶望的な恋をしている。ザーシャをいいように利用しているように見えるニケは、若いのにほぼすべての歯がなく、虐待された過去を推測させる。実際、幼いころに箱に閉じ込められていたという話をザーシャにしたことがある。
あるとき、隣家にひとりで暮らす中年女性ミミが訪ねてくる。ザーシャとかつて関係を持ったことがあるようだ。ミミを通して「わたし」は、ミミの弟アリルトと知り合う。妻子に去られた後、両親から受け継いだ農場でひとり暮らしをしている寡黙なアリルトと「わたし」は徐々に親しくなっていく――。
終盤を除いてなにか大きな事件が起きるわけでもなく、物語は「わたし」の目を通して淡々と語られていく。北の海辺の人々も、「わたし」の家族も、登場人物は皆、この世界にうまくなじめない孤独な人たちだ。学校で問題児だった娘のアンは、18歳になると家を出て、旅人になった。ときどき遠方から居場所の座標を送ってくる。元夫のオーティスは、人類にはいつか未曽有の危機が訪れると信じて、生き残るために家中にさまざまなものを溜め込んでいる。
「わたし」もまた不思議な人だ。若いころ、マジシャンだという老年の男に声をかけられた。マジックの舞台で、箱に入ってのこぎりで切られる美女役をやってくれないかと。一度試してみてほしいと言われて、「わたし」は男の家を訪ね、箱に横たわった。男が箱にのこぎりを入れた瞬間、自分が本当にふたつに割れた気がした。男の舞台はシンガポール行きの客船だという。「わたし」は結局、約束の日に駅へは行かなかった。だが、その後結婚し、子育てをし、離婚して海辺の家へ引っ越してからもずっと、自分の一部があの箱に残っているような気がしていた。
『人の上で』の登場人物たちが非常にリアルな存在感を持つのに対して、この『我が家』の登場人物たちはなんともエキセントリックだ。だが彼らもやはり、社会が決める「正しさ」や「幸せ」とはまったく無縁の場所で、それぞれの人生を生きている。そんな彼らとときには支え合い、ときにはいがみ合いながら暮らすうちに、荒涼とした灰色の北海は徐々に「わたし」の新たな我が家になっていく。
1970年生まれの著者ユーディット・ヘルマンは、ベルリン在住の小説家。98年に短編集『夏の家、その後』で衝撃的なデビューを飾って以来、独特の静謐でどこかメランコリックな作風で確固たる地位を築いている。
■歩いて本を届け続ける書店員、ある出会い
本への愛を語る小説、本が人と世界を救う小説は世の中に多々あり、個人的には少々食傷気味なのだが、本書『Der Buchspazierer(本と散歩する男)』は昨年11月の刊行から1年近くもベストセラーリストに載り続ける大ヒット作ということで、興味が湧いて読んでみた。
70代のカールは「町の門」書店に何十年も勤めてきた。妻も子もいないカールにとって本こそが家族であり、人生そのものだ。「町の門」は、顧客が注文した本を店員が直接届けるサービスが売りだ。だがカールの師匠であり親友でもあったグスタフから店主の地位を引き継いだ娘のザビーネは、この非効率的で時代遅れのサービスを廃止したいと目論んでいる。それでもカールは毎晩、いまだにサービスを利用する数少ない顧客の家を徒歩で訪ねて、注文された本を届けるのを生きがいにしている。
顧客たちに、カールはこっそり小説の登場人物たちの名前をつけている。瀟洒(しょうしゃ)な邸宅にこもって本を読み続ける「フィッツウィリアム・ダーシー」、いつも悲しそうな「エフィ・ブリースト」、奇妙な謎を仕掛けてくる陽気な「長くつ下のピッピ」、筋骨隆々の「ヘラクレス」、たばこ工場で労働者たちに小説を朗読する「朗読者」……。
あるとき、黄色いコートを着た少女が、一緒に本の配達に回りたいと押しかけてくる。聖域を犯されるのを嫌って、カールは少女を追い払おうとするが、シャーシャというなんとも奇妙な名を名乗るその少女は、機知と勇気で変わり者ぞろいの顧客たちの懐にするりと入り込み、やがてカールにとってなくてはならないパートナーとなる。
シャーシャの登場によってカールは、それまで傍から見て想像するばかりだった顧客たちの人生に深く関わっていくことになる。エフィ・ブリーストは夫から暴力を受けていた。長くつ下のピッピは、夫をなくして以来、家から一歩も出ていなかった。ヘラクレスは実は字が読めなかった。それぞれの事情を抱える登場人物たちが、本を通して一歩前へ進む勇気を見いだしていく。そしてあるとき、書店をクビになって絶望に陥ったカールを、顧客たちが救うことになる……。
著者のカールステン・ヘンは、ワインやコーヒーなどをテーマにしたいわゆるグルメ・ミステリで人気を博す小説家だが、『本と散歩する男』で新境地を切り開いた。多くの読者を夢中にさせるのも納得の、本と人への愛があふれる心温まる物語だ。
ドイツのベストセラー(フィクション部門)
8月18日付 Börsenblatt 誌より
1 Billy Summers ビリー・サマーズ
Stephen King スティーヴン・キング
元軍人の殺し屋が最後と決めた仕事に向かう。大人気作家の新作。
2 Über Mensche 人の上で
Juli Zeh ユーリ・ツェー
コロナ禍で田舎の村へ逃れてきた女性と「村のナチ」との奇妙な交流。
3 Die Verlorenen 失われた人々
Simon Beckett サイモン・ベケット
英武装特殊部隊員がかつての親友の遺体を発見する。英人気作家の新作。
4 Der Brand 火事
Daniela Krien ダニエラ・クリーン
30年連れ添った夫婦に訪れた愛の終わりと田舎での新たな人生の模索を描く。
5 Die verschwundene Schwester 消えた妹
Lucinda Riley ルシンダ・ライリー
〈セブン・シスターズ〉シリーズ最新刊。7人目の姉妹の秘密が明らかに。
6 Der große Sommer 大いなる夏
Ewald Arenz エーヴァルト・アーレンツ
初恋、友情、死。ひとりの少年が祖父のもとで過ごす、人生を変えるひと夏。
7 Stay away from Gretchen グレートヒェンに近づくな
Susanne Abel ズザンネ・アーベル
年老いた母が息子に語る戦中戦後の体験。写真に写る黒い肌の少女は誰か。
8 Der Buchspazierer 本と散歩する男
Carsten Henn カールステン・ヘン
数十年にわたって顧客のもとへ本を届ける老人が変わり者の少女に出会う。
9 Daheim 我が家
Judith Hermann ユーディット・ヘルマン
離婚して海辺の家へと越してきた中年女性と孤独な人々との交わり。
10 Die Mitternachtsbibliothek 真夜中の図書館
Matt Haig マット・ヘイグ
死の直前に開かれる魔法の図書館で、数々の本が、あり得た人生を示す。