【前の記事を読む】オーストラリア日系ハーフの生き方から見えてくる、多文化に生きるためのヒント
■エディ・ジョーンズの体験
ハーフという存在が特別視されない社会で、肩ひじ張らずに生きる。自分のルーツにも誇りを持てる。若者たちには、そんな共通点があった。
ハーフを理由にいじめられたり、外国人扱いされたり……日本社会でしばしば伝えられる、そんな「生きづらさ」は少ないように、私には感じられた。
ただ、豪州でも、そんな環境が以前から当たり前だったわけではない。
ラグビー日本代表の前監督、エディ・ジョーンズ(61)は日系米国人の母とオーストラリア人の父の間に生まれた。回顧録『エディー・ジョーンズ わが人生とラグビー』(邦訳、ダイヤモンド社刊)で、今と全く異なる豪社会を紹介している。
母は戦後、日本で駐留軍の通訳をしていたときに父と知り合い結婚、豪州に移り住んだ。当時は白人ばかりで、母は嫌がらせを受けた。夫の不在中に庭の芝刈りを頼んだ男に感謝の言葉をかけると、「お前の家の芝刈りはしない」と仕事をしてもらえない。買い物先で「英語ができないのをからかってやれ」とつきまとわれたが、流暢なアメリカ英語で黙らせた――。そんな逸話が出てくる。
エディ自身も学校では珍しいアジア系だった。「受け入れられる方法はスポーツができること。私は得意だった」と振り返り、「1960〜70年代には、有色人種は差別に鈍感であることが必要だった」とも書いている。
■「スシは敵の食べ物」
豪州で知られる日系ハーフが、クミ・タグチ(45)だ。豪公共放送ABCのニュースキャスターを務め、現在はもう一つの公共放送SBSの教養番組「インサイト」の司会を務める。代表的なアジア系ジャーナリストでもある彼女も、現代の若者とは違う経験をしていた。
オーストラリア人の母は日本語が堪能で、東京で英語講師をしていたとき、日本人で新聞記者の父と結婚した。父がABCのラジオ記者として採用され、74年にメルボルンへ。翌年にクミが生まれた。白豪主義が廃止されたころだ。
5歳のときに両親が離婚。母と姉と引っ越した豪南東部の高原地域は、白人ばかりの場所だった。
高校時代、歴史の授業で太平洋戦争がテーマになった日を覚えている。日本軍による東南アジアでのオーストラリア人捕虜へのひどい扱いや、豪北部ダーウィンへの空爆が取り上げられた。「私は普通の人だったはずなのに、クラスの誰もが、敵だった日本のことを話しているときに日本人がいる、と私を見た。私は恥ずかしく、困惑した」
静まりかえる教室。「ここに日本人のハーフがいるが、私たちは彼女が大好きだ。心を開いて議論しよう」。先生が救ってくれた。
だが、90年代後半、大学生から社会人になっても差別を何度も経験した。
「英語を話せる?」「どうして英語のなまりがないの?」。こんな言葉は、しょっちゅう。アルバイトをした飲食店では、「スシは食べない。殺し合いをした敵の食べ物だから」と言われた。
テレビでアジア系と言えば、「数学おたく」の学生かヌードル店の店主で、女性は従順、といったイメージだった。「日系であることを嫌い、目の色を隠したいといつもサングラスをかけていた」
年齢を重ね、日本を何度か訪れるにつれて心境に変化が起きた。「日本にいると、心が平和になった。私の遺伝子コードが心地よさを感じているようだった」
母は離婚後も小学生のころまで、東京の父方の祖父母宅に連れて行ってくれた。家では和風の暮らしを好んだ。靴を脱ぎ、座布団を使い、和食を作り、人の家に行くときはお土産を持参した。そんな記憶を素直に振り返るようになった。
■「多文化社会への移行段階」
父は3年前に亡くなった。離婚後は退役軍人クラブのパブで、日本軍に対して心の傷を持つ人たちに議論を試みていたという。「父の残りの人生は長くないと考えてから、父の経験は私の歴史でもあると思うようになった」
戦後75年の昨年、戦時を振り返るABCの記念番組の紹介役に指名された。理由を尋ねると「あなたのバックグラウンドからだ」と言われた。
「日本人の名前を持つ日系ハーフの自分が、日本軍の敵に対する行為を伝える。世代は変わったという強いメッセージになる」。そう思い、引き受けた。
白豪主義を廃止後、政府は多文化主義へかじを切った。英国系とは違う、様々な背景を持つ新たな移民たちとの共生のためだ。英語教育の充実とともに多言語の行政サービスを整え、彼らの文化も尊重する立場を打ち出した。99年には毎年3月21日を多様性を祝う「ハーモニーデー」に設定。各州の学校教育のカリキュラムには多文化教育が盛り込まれた。
クミは、そんな積み重ねがもたらした変化を歓迎する一方、コロナ禍で起きたアジア系への差別に心を痛めたと語る。
「『自分の国に帰れ』とののしられた」「顔につばを吐かれた」「職場で無視された」――。アジア系オーストラリア人連盟(AAA)には昨年4月から今年6月に541件のこんな被害例が寄せられた。
「豪州はまだ、多文化社会として移行段階にある」と、シドニー大学講師(文化研究論)のティモシー・カズオ・ステインズ(33)は話す。自身も父が白人のオーストラリア人、母は日本人のハーフのステインズは、白人優位の政財界でアジア系がなかなか打ち破れない出世の障壁を指す「竹の天井」も挙げた。
■子どもたちが通う サタデースクール
今回会った若者たちはみな、通称「サタデースクール」に通っていた。主に日系の子たち向けに週末に開校。海外にある在留邦人向けの日本人学校とは違い、日本語教育を一番の目的にしている。現在、豪州に20以上あるという。
その一つ、JCS日本語学校を訪ねた。シドニーの日本人や日系人の約350世帯が入るシドニー日本クラブ(JCS)が1999年に設立し、州立小学校を間借りして開いている。3歳半から12年生(日本の高校3年)の計229人のうち、200人の親が国際結婚組だ。
幼児クラスにお邪魔すると、ひらがなやカタカナで野菜や果物の名前が書かれた絵入りカードでゲームをしていた。
先生が「次は、きゅうり」と読み上げると、子どもたちがさっと手を伸ばす。
「きゅうり、取った!」
「それはキウイ。難しいね」
クラスが上がれば、学びのレベルも上がる。日本の小5の国語教科書も使うという最上級の教室は、抜き打ちの漢字テスト中だった。
「信じろ」「成功を収める」「司法の判断」「社長の辞職」――。読み仮名の問題が並ぶ。
「移動図書館」と称して、この小学校の倉庫に保管している1300冊の日本語の本を貸し出す。日本の文化の継承も目的だ。ひな祭りや七夕といった行事のほか日本の学校のような運動会もある。
幼児クラスで先生のアシスタントをするコステロ・シュボン(21)は卒業生。「ここに来なかったら、同じようなハーフの子と接する機会がなかった。毎週友達に会えて楽しかった。日本でいう青春を経験した感じです」と振り返る。
親たちは、どんな思いで我が子を通わせているのか。
ニュージーランド人の夫の仕事で豪州に移住したホラン純子(49)は、ジェイデン(6)と4歳の双子のゼインとミアをこの学校に通わせている。
「日本語の習得というより、同じ環境の仲間をつくってほしい。ハーフは特にアイデンティティーに悩むと聞くので、そのときに相談できるように」
IT技術者の露木智徳(44)は、ワーホリ時代に英語学校で知り合ったタイ人女性と結婚。理咲(13)と伶(11)の2人の子は日本語学校だけでなく、日曜日にはタイにルーツを持つ子ども向けのタイ語学校にも通っている。
永住者から豪州で生まれた子は出生時に豪国籍を得る。「子どもたちはオーストラリア人。でも、日本もタイも知っている。どう生きていくかは自ら決めることだが、可能性をキープしてあげたい」
日本人カップルの堀田裕子(47)は、長男の悠剛(ひゅうご、6)が、この学校でできた友人たちとの付き合いを通じて、「日本のスパイスが入ったオーストラリア人になってほしい」と願う。
校長のコステロ久恵(52)は言う。「この国はいろんな人種の人が自然体で住み、互いの背景をリスペクトし合っている。この学校で日本人が持つ気質のようなものも合わせて学んでもらいたい」
■日本のことも考えた
親たちの言葉を聞いて、私は改めて気づかされた。親の人種や出身国は様々だが、子どもはみなオーストラリア人である。日本人同士の間に生まれた子だって「日本文化と豪州文化のハーフ」のオーストラリア人と言えるのではないか。
次世代にとっての「オーストラリア人」とは、もはや「英国系の白人」といった外見でイメージされないように思える。若者たちの言葉を振り返れば、自由な民主社会の豪州で、それぞれが独自の背景を持ちつつ暮らし、多文化の価値観を共有する人たち。そんな意味合いだ。
私は、クミ・タグチが、豪州が目指す多文化社会の姿として、LGBT(性的少数者)や障害者、生活困窮者たちも包み込む多様性を挙げていたことを思い出していた。たとえば、豪州では17年に同性婚が合法化され、LGBTはますます自然に受け入れられている。
なるほど、ハーフが生きやすい社会とは、人種や民族的な背景だけでなく、様々な存在を素直に認め合う社会なのだ。こんな答えにたどりついた。(文中敬称略)
■アジア系「ハーフィー」のFBグループに2万人
「Subtle Halfie Traits(微妙なハーフの特徴)」。2018年10月、こんな名前の豪州発のフェイスブックのグループができた。非白人系の間では、第2世代のハーフが増えている事情が共通する。2万4千人に増えたメンバーの多くはアジア系のハーフで、豪州以外からも参加している。
「ハーフの経験が書かれたノンフィクションの本を紹介して」。こんな書き込みには、写真付きで本の紹介の返答が投稿される。
「これがアジア人の父と、アジア人でない母が出会ったころ」
写真付きの投稿には「いいね!」が押され、別のメンバーも両親の若い頃と幼い自分の写真などをシェアしていく。
白と茶、黒の毛が微妙に混ざった犬の写真に「永久の美しさだ!」と添えたジョークで楽しむ。
肌の色で差別されたと告白するハーフの若者の動画もシェアされている。
管理者の一人のデビン・マイケル・グラハム(27)は香港出身の母とニュージーランド出身の白人の父の間に生まれ、豪州第3の都市ブリスベンで育った。「投稿の大半は、多くのハーフが経験するような話。いいことも悪いことも、シェアする。アジア人でも白人でもないハーフという存在を自信を持って語る助けになっている」
豪州のアジア系社会を研究するディーキン大(メルボルン)講師のモニカ・ウィナーニタ(42)は指摘する。「第2世代は、互いに似ている点を感じている。それはアジア系豪州人のアイデンティティーといえるものだ。SNSのグループは前向きに自分が何者か、自分をどう表現したらよいかを探る場になっている」