1. HOME
  2. World Now
  3. 終戦の日に考える「日本はなぜ負けたのか」元陸自幹部の言葉、国民と報道の責任とは

終戦の日に考える「日本はなぜ負けたのか」元陸自幹部の言葉、国民と報道の責任とは

桃野泰徳の「話は変わるが」~歴史と経験に学ぶリーダー論 更新日: 公開日:
敗戦を伝える昭和天皇の放送を聴く人たち=1945年8月15日、大阪市・曾根崎警察署前
敗戦を伝える昭和天皇の放送を聴く人たち=1945年8月15日、大阪市・曾根崎警察署前

もうずいぶんと昔の話だが、学生時代、友人から酒の席でこんな議論をふっかけられたことがある。

「日本って本当にダサいよな。世界中が空母で戦っている時代に、いつまでも戦艦にこだわってボコボコにされたんやぞ?」

戦後50年の節目にあたる夏休みだったので、テレビも新聞もこぞって戦争特集、平和特集を繰り広げていた頃合いだ。

そのため誰もが歴史評論家になり、先の大戦を論じようという空気が学生向けの安居酒屋を支配していたように記憶している。

そのことそのものは、とても有意義なことだろう。

しかし彼の言うことには少し事実誤認もあったので、軽く反論を試みた。

「なるほど、空母が敗因か。ところで、世界で最初に正規空母を戦力化したんは日本やけど、それは知ってるんか?」

「最初であっても、そんなん意味ないやろ」

「開戦時の瞬間的な戦力だけなら、日本の空母機動部隊は間違いなく世界最強やったぞ。お前の理解は浅い」

「じゃあ、精神論はどうなんだよ。アメリカに比べて人命を軽視してたやないか」

「それはその通りだ。じゃあなんで精神論に頼り、人命軽視とも言える方針を日本は採ったんだ?」

「……」

「やっぱりお前の議論は浅すぎる。イメージだけで、物事の本質に思いが至って……」

「うっさい!ふざけんな!」

次の瞬間、友人はいきなりテーブルを乗り越えて飛びかかってきた。

後は、周囲のお客さんや店員さんを巻き込んだ大騒ぎになってしまったが、令和に比べてまだおおらかな時代のことだ。

警察が来ることもなく、最後には止めに入った別グループを交えてさらに賑やかな宴会が始まってしまった。

そして殴りかかってきた友人とは肩を組み、帰りに鴨川で水浴びをしたところまでは覚えている。もっとも、その後どうやって家に帰ったのかはさっぱり覚えていないが。

真珠湾に対する日本海軍の奇襲攻撃を受けて炎上するアメリカ海軍主力艦=1941年12月8日、アメリカ・ハワイ
真珠湾に対する日本海軍の奇襲攻撃を受けて炎上するアメリカ海軍主力艦=1941年12月8日、アメリカ・ハワイ

あれから四半世紀以上の時が流れ、今年は太平洋戦争終結から76年となった。

しかしその間、私たちの敗戦に対する理解はどれだけ進んだだろう。

「大艦巨砲主義にこだわった」「精神論に頼り人命を軽視した」など敗因を単純化し、あるいは事実を誤認し、学生のヨタ話のレベルで多くの国民が止まっているのではないだろうか。

結局のところ、先の大戦を振り返ると「開戦そのものが敗因」であるという結論に行き着かざるを得ない。それこそが、国を失った最大の要因だ。ではなぜ、そう言い切れるのか。

”I have a dream”

話は変わるが、2004年1月から始まった自衛隊イラク派遣について、詳しく覚えている人はいるだろうか。

自衛隊が戦後初めて、事実上の戦闘地域に派遣されることになったと言ってもよい歴史の転換点になった出来事である。

そしてこの際、復興業務支援隊の第2次隊長を務めた、田浦正人(防大28期、以下敬称略)という陸上自衛隊の幹部がいる。

現参議院議員で、「ヒゲの隊長」と呼ばれた佐藤正久(防大27期)・初代隊長の後を継ぎ、現地で指揮を執った男だ。

そしてこの田浦ほど、冷戦時代から近年の新しい世界秩序の中で、「自衛隊の新たな在り方」を模索し、作り続けてきた幹部はいない。

陸上自衛隊の第7師団長に就任し、抱負を述べる田浦正人氏=2015年8月、北海道千歳市、横山蔵利撮影
陸上自衛隊の第7師団長に就任し、抱負を述べる田浦正人氏=2015年8月、北海道千歳市、横山蔵利撮影

田浦が防衛大学校を卒業し自衛隊に入隊したのは、昭和59年(1984年)3月のことであった。西側諸国がモスクワ五輪をボイコットしてから4年後という時代背景である。

その後、幹部学校をトップクラスの成績で卒業すると、平成15年1月には1選抜(同期1番乗り)で1等陸佐に昇任する。

そしてその1年半後の16年8月、42歳の若さでイラクに赴き、指揮を執ることを命じられた。

この命令を受け取った際、田浦が一番にしたことは妻の父母に充てて手紙を書くことだった。

「自衛官に嫁がせたばかりに、ご心配をお掛けして申し訳ありません。しかし、私には仕事があります。行かせてください」

そして妻には感謝していること、後のことを宜しくお願いしますと、繰り返し後事を託した。

さらに当時、小学校3年生と幼稚園の幼い息子たちには「これが父の仕事だ、お父さんに何かあったらお母さんをしっかり頼む」と言い聞かせ、サマーワに向けて出立している。

この際、兄は最後まで涙を堪え父の話を聞いていたそうだが、まだ幼稚園児だった次男は泣き出してしまったそうだ。

遺言として話す田浦の空気感とは、それほどまでのものであったのだろう。

そして田浦がイラクで指揮を執った半年間はまさに、危機の連続であった。現地の武装勢力に日本人3人が拉致された「イラク日本人人質事件」が発生したのも、この時である。

また自衛隊がイラクに在った時、宿営地には合計で14回の弾着が観測されているのだが、そのうちの実に半数が、田浦が指揮を執っていた半年間に生起している。

それほどまでに田浦がイラクに在った半年間は、イラクがもっとも不安定化していた時期のひとつであった。

そんなこともあるのだろう。タフな任務を乗り越えた田浦以下、90名余りの第二次隊が全員無事に帰国した時、今度は長男が堪えきれずに大泣きし、次男は大喜びではしゃいだそうだ。

そんな兄弟の反応の違いを楽しみ、初めて田浦は日本に帰国したことを実感できたのではないだろうか。

イラクのサマワに到着し、宿営地に入る陸自主力第3波の隊員たち=2004年3月、荒井聡撮影
イラクのサマワに到着し、宿営地に入る陸自主力第3波の隊員たち=2004年3月、荒井聡撮影

しかしさらに、田浦の厳しい任務は続く。

平成23年3月、1選抜で陸将補に昇っていた田浦に今度は、福島行きの命令が下りる。

東日本大震災が発災すると直ちに福島原発に入り、自衛隊の現地責任者を務めるよう命じられたものだった。

あの未曾有の大震災における陸自をはじめとした自衛隊の活躍について、今さら多くの言葉は要らないだろう。

田浦はまさにその最前線で、強い放射線に晒されながら、建屋が吹っ飛びいつ爆発するかわからない福島原発を制御するための指揮を任されていたということだ。

福島第一原発3号機(左)に放水する自衛隊の消防車。中央奥が4号機=2011年3月18日、陸上自衛隊中央特殊武器防護隊撮影
福島第一原発3号機(左)に放水する自衛隊の消防車。中央奥が4号機=2011年3月18日、陸上自衛隊中央特殊武器防護隊撮影

その後、陸将に昇った田浦は、陸上自衛隊の序列No.2(当時)である北部方面総監を最後に、2年前の令和元年8月22日に退役している。

そしてこの際、実は私は、田浦の退役式の取材許可を得る幸運に恵まれた。これほどまで、国内外の国家的有事で対応を任されてきた最高幹部が、最後に何を語るのか。どうしても目に焼き付けておきたかったので、地元メディアを通じ申し入れたものだった。

しかし厳かな栄誉礼に続き、田浦が話し始めた言葉は、とても意外なものだった。

I have a dream

私には夢がある

いつの日か、我々が誇りを持って任務に邁進できる日が来ることを

私には夢がある

我々が感謝の念を持って、任務を遂行できる日が来ることを

私には夢がある

愛する家族が、安心して我々を送り出すことができる日が来ることを

明らかにこれは、1963年、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がリンカーン記念堂で行った演説をなぞらえたものである。

人種差別の撤廃とあらゆる民族の平等を説いたこの演説は、歴史上もっとも有名なスピーチの一つと言ってよいだろう。

そしてその後、アメリカ民主主義の発展に大きな影響を与え、多くのリーダーの心に残り続けたフレーズとなっている。それを田浦がなぞらえ、自らの夢を乗せ、後を託す隊員たちに語り始めた。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師=アメリカ議会図書館/Wikimedia Commons
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師=アメリカ議会図書館/Wikimedia Commons

何の感情かわからない、不思議な涙が溢れてきた。

田浦の39年間とはこれほどまでに厳しく、また重大なものであったことを改めて噛みしめる想いだった。

そして、日本と世界の平和を願う想いが並々ならぬものであったことも。

しかし同時に、この田浦の言葉には「先の大戦の敗因」にも通底する重大なメッセージが込められていることにも気付かされ、背筋が伸びた。なぜか。

田浦のこの言葉には、「自衛隊が心置きなく戦える環境は、未だに整っていない」という危機感が込められているからである。

「自衛隊が暴走した」と歴史に刻むのか

話は冒頭の、「開戦そのものが敗因」という結論についてだ。

日本は確かに、装甲が皆無のハリボテともいえる零戦、機銃弾がかするだけで燃上し「ワンショットライター」と揶揄された一式陸上攻撃機など、人命を軽視していると言われても仕方がない装備で戦った。

陸軍の銃剣突撃もそうだが、その全ては欧米列強に比べ、資源も国力も劣る中で、なんとかして戦力の均衡を維持しようとして行き着いた結果である。

国力・物量で劣るのであれば人でカバーするしか無いというのが、当時の日本の「弱者の戦略」であったということだ。

そしてそのような現実を直視できず、あるいは楽観的に解釈し戦争を引き起こしたのは、果たして「暴走した軍部」だけだろうか。

他ならぬ国民自身にも大きな責任があったことを、終戦の日の今日、考えてみるべきではないだろうか。

メディアが戦争を煽り、小気味良い開戦論で国民をその気にさせたという側面は確かにあるだろう。しかしメディアというものは、読者に適応し「売れる言説」を展開しようとするものだ。

メディアが開戦を煽ったのであれば、それは国民が喜んだことの裏返しでもある。

このようにして、「人的消耗を前提に、戦力の均衡をなんとか維持していた」日本が本当に戦争に突入してしまえば、時間の経過とともに戦力が枯渇するに決まっているではないか。

だから、「開戦そのものが敗因」であるという結論に、行き着かざるを得ないということである。

ガダルカナル島で壊滅的な損害を被って撤退する日本軍の行動について、「転進」と伝える朝日新聞の紙面(1943年2月10日付朝刊)
ガダルカナル島で壊滅的な損害を被って撤退する日本軍の行動について、「転進」と伝える朝日新聞の紙面(1943年2月10日付朝刊)

そして話は、田浦の退役式の言葉についてだ。

今、私たちはどれほど、自衛隊の戦力と「できること/できないこと」について正しく知っているだろう。

そしてそれ以上に、戦力を行使すべき時・場所・大義についてどこまで議論できているだろうか。

2020年3月、NHKの「自衛隊が体験した“軍事のリアル”」という番組で久しぶりに、民間人になった田浦を見かけることがあった。

その番組で田浦が繰り返し言っていたのは、以下のような言葉であった。

「自衛官は(戦争に)行きたいわけでも行きたくないわけでもありません。しっかりと法律を整備して頂き、国民に背中を押される状況で、期待に応えたいんです。そしてそのために準備をすることが、プロの矜持だと思っています」

田浦のこの言葉は、国民に向けての「それぞれの立場でより深く、自衛隊のことを考えてほしい」というリクエストだと理解している。

そしてそれは、戦力というものに対して理解を欠いていた、戦前の状況に通底する危機をも示唆している。

そんな中で万が一、日本が他国と紛争になったら、今度は「自衛隊が暴走した」などと歴史に刻むのだろうか。そんなことを、私たちは絶対に許してはならない。

私には、自衛隊の幹部曹士に多くの友人がいる。

尊敬できる人格者、気のおけない飲み友達など様々だが、当然のことながら誰一人失いたくない。

しかしもし、日本が理不尽な攻撃を受け、私たちの生活が危機に晒されたなら、「日本のために戦ってほしい」と言うだろう。

そして友人たちに万が一のことがあれば、誰よりも号泣し、その静かな帰郷を出迎えると思う。

だからこそ、私たちはどんな時に戦い、何を守るためであれば友人や家族の命すらも失っても良いと考えるのかを今、議論し、「その日」が来るのであれば送り出したいと願っている。

保守でもリベラルでもいい。賛成でも反対でもいい。

私たちにとって戦力とはどういう存在なのか。「戦うべき時」と自衛隊をどのように位置づけ、そして結果に対しどのように責任を持つのか。

終戦記念日の今日、それぞれの立場で負うべき責任について、一人でも多くの人に考えてほしいと思う。

それこそが、「開戦そのものが敗因」という戦いで命を落とした先人たちへの、せめてもの供養ではないだろうか。