普段は大学に通う男性(20)がこの活動を始めたのは3年前。あまりに非人間的な境遇を目の当たりにし、「自分にできることを」と駆り立てられた。バットマンに変身するのは、少しでも問題に目を向けてほしいからだ。
この3年でホームレスの人たちを取り巻く状況は「かなり悪化している」。公園などからは閉め出され、パンデミック後はこれまで以上に公的支援が届きにくくなったと感じる。
一番の気がかりは子どもたちだ。親が仕事を解雇され、家賃を払えなくなった――。そんな子を何人も見てきた。「この子たちは何も悪くない。胸が張り裂けそうになる」
米住宅都市開発省の報告書(2020年)によると、サンノゼのホームレスは9605人と全米トップクラス。シリコンバレーの平均年収は約15万ドルと全米平均の2倍を超すともいわれる一方で、あらゆる物価が上昇し、住まいを追われる人が続出している。
バットマンは言った。「ここでは最低賃金では生活できず、本当に多くの人が追い詰められている」
高架下からさらに10分ほど歩くと1本の川にぶつかる。この川沿いにも、シートなどで作られたホームレスの住まいが広がる。
黒ずんだスニーカーにぼさぼさの頭。疲れ切ったように座っていた女性(36)に声をかけた。「ここは世界で一番ひどい場所。神様に嫌われてしまった」。子どもの頃からホームレス生活を続けているという。一緒に暮らしていた父親が亡くなってからは公的支援が受けられなくなり、仕事も見つけられない。パートナーはドラッグでおかしくなった。「私はどうしたら普通に暮らせるの?」。涙ぐみながら、これまで何度も自殺をはかったと話した。別れ際に尋ねられた。「何か食べ物はありますか」
この街で昨年、ある試験事業が始まった。サンノゼを含むサンタクララ郡が里親制度を終えた若者に無条件で毎月現金を配るベーシックインカム(BI)だ。24歳の72人に昨年7月から月1000ドル(約11万円)が給付されている。90万ドルの予算があてられた。背景に里子の約半数がホームレスになるという過酷な現実がある。事業のきっかけを作ったNPO代表のジゼル・ハフさん(85)は「彼らは、他の若者が持っている家族のサポートがまったくなく、人生に立ち向かう準備ができていない。このお金で初めて自分の人生を選択する機会を得られる」とBIの必要性を強調する。
「今ごろホームレスになっていたかもしれない」。この春、地元の大学を卒業したベロニカ・ビエリアさん(25)は1年前の出来事をこう振り返る。
新型コロナの感染拡大で大学寮が閉鎖されることになり、2カ月以内の退寮を求められた。ルームメートなど多くが実家に帰る中、身寄りのないビエリアさんは自分で転居先を探さなければならなくなった。でもこれまで貯金する余裕などなかった。そんな窮地にBIが始まり、新たな下宿先に移ることができた。「BIがなければ大学を続けられなかった」。17歳で、シングルマザーだった母と死別した。大学に進み、自身と同じような元里子や家庭内暴力に苦しむ人を支援したいという目標を持った。夢は消えずに残った。
「以前は1ドルも貯金できなかったが、いざという時に備えられるようになった」「5万ドルもの学生ローンの返済にあてられた」。他の受給者にとってもBIは生活に欠かせない支えになっている。郡の担当者メラニー・ヒメネス・ペレスさんは、「次の日をどうするか」しか考えられなかった若者たちがこの1年で、「自身がより幸せになっただけではなく、互いに助け合い、コミュニティーと関わる方法を模索するようになった」と話す。
郡は6月、1年間だった給付期間を半年延ばすことを決定。恒久的な制度にするかを今後検討するという。カリフォルニア州議会は7月、郡の取り組みを受け、州全域の元里子らにBIを給付するプログラムを承認した。
デンバー、オークランド、コンプトン……、自助努力を重んじてきた全米で今、BIに試験的に取り組む自治体が続々と出ている。背景には、従来のセーフティーネットは資産要件や就労など様々な条件をつけて対象を狭く絞り込み、本当に必要な人に支援が届かないとの問題がある。数々のプロジェクトに携わる非営利調査会社「ジェイン・ファミリー・インスティテュート」のスティーブン・ヌニェス主任研究員は「既存の制度は貧しい人や非正規雇用の移民たちを不信感を持って扱い、多くの人を置き去りにしてきた」と話す。
BIはこれまでフィンランドやカナダなどでも導入が検討されたが、本格的に実現した国はない。無条件でより広く支給するには多額の財源が必要になるほか、「お金を渡せば、働かなくなるだけ」「酒やたばこに消える」といった批判も根強い。
しかし、ヌニェスさんはこれらを「誤解」と言い切る。数十年にわたる様々な実証研究では、BIによって働かなくなるのはごく一部で、むしろ職業訓練や子育てなどに多くの時間が割かれた。19年から2年間、試験実施したカリフォルニア州ストックトンでは、初めの1年でフルタイムの仕事につく人の割合は28%から40%に上昇。支出先も食費や日用品がほとんどで、酒やたばこは1%未満だった。
暴力や犯罪が減ったことが示された実証結果もある。もはや研究の焦点はBIの効果の有無から、最も効果的な水準や頻度、既存のセーフティーネットとの組み合わせ方に移っている。
無条件でお金を配り、すべての人に最低限の生活の土台を保障する。そんなBIは、まずは本当に必要な人からお金を配る形で実現を模索し始めている。全米に広がり、格差問題を解く鍵となっていくのか。
「一朝一夕にはできない」。シリコンバレーでBIを提唱し続けるハフさんはいう。「でもこの国では、女性が投票できるようになるまで7年、同性愛者が結婚できるようになるまで約50年かかった。私の生きている間には無理でも、BIは広がっていく。これを必要とする人がいるのは明らかなのだから」