【前の記事を読む】<チェルノブイリルポ③>原発事故の日、私は生まれた 廃虚に潜りこむ「ストーカー」
チェルノブイリ原発事故で廃虚と化した街プリピャチには、どんな人が暮らしていたのだろうか。彼らは事故をどう迎えたのか。
この街の元住民セルゲイ・サモヒン(64)を、キエフ郊外の自宅に訪ねた。
現ロシア中部ウラル地方の出身で、モスクワ大学を1982年に卒業し、コンピューター技師としてチェルノブイリ原発に就職した。原発勤務は高給で、当時の多くの人にとって憧れだったという。最初は単身生活だったが、3歳と1歳だった2人の子と妻を2年後に呼び寄せ、プリピャチに家庭を築いた。
ソ連で最も近代的な街といわれたプリピャチは人工都市で、チェルノブイリ原発の建設が始まる前年の1970年、無人だった原野に築かれた。名称は、欧州第3の大河ドニエプル川の支流ですぐ隣を流れるプリピャチ川に由来する。約5万人の住民の多くは原発の技術者とその家族で、サモヒン家と同様に幼い子を連れた若い夫婦が中心だった。平均年齢は約26歳で、幼稚園は市内に15園を数えた。
1986年4月26日は土曜日で、サモヒンにとって休日だった。朝、アパートのベランダで、鉢植えの花を入れる箱づくりに精を出した。午前9時半ごろに郵便局に行き、駅前の市場にも出かけていった。暖かく穏やかな日。鳥がさえずり、特段の変化はうかがえなかった。
しかし、後から振り返ると、少し奇妙な出来事が重なっていた。
郵便局に行ったのは、ソ連内の親戚に電話をかけるためだった。当時のソ連では一般家庭に電話がほとんど普及しておらず、かける方と受ける方が事前に示し合わせて郵便局にでかけ、備え付けの電話で会話をするのが普通だった。しかし、この日は何度呼び出しても、先方の郵便局に電話がつながらないままだった。
郵便局には、3歳を前にした下の子を連れていった。公園を通りかかった時、その子の帽子が風に飛ばされた。近くにいた警察官が拾ってくれた。検察官は、帽子に付いた砂を何度も払って、手渡してくれた。その様子を見て、「なぜそんなに丁寧に払うのだろうか」と疑問に感じた。街中に警察官もやたら多いように思えた。後から思えば、その時「土に触れないように」との指示が、すでに警察では行き渡っていたのだった。
自宅に戻って箱づくりを続けていると、知人の妻がやって来た。「原発で事故が起きたようだ」と話す。しかし、小さな事故自体はさほど珍しくなく、特に気にするほどでもなかった。「もし大きな事故なら、私たちは今もう生きていられないだろうし」と、冗談めかして会話は終わった。
その後、街に放水車がやってきて、路面に水をまき始めた。これも変だなと思ったものの、大して気にはならなかった。
プリピャチの郊外ヤニフにある鉄道駅の前には、近隣の村の人々が農産物を持ち寄る青空市が立っていた。サモヒンは自転車に乗って出かけていき、そこで勤務先の同僚に偶然出会った。同僚の家はアパートの高層階にあり、部屋から原発が見える。
「何だか原発の屋根が変なんだ。斜めに傾いているように見えるのだけど」
そう語る同僚の言葉に、気のせいだろうと考えた。「本当の大事故なら、自分たちもとっくに死んでいるはずだし」とも思った。
実際にはこの日未明に原発事故が起き、プリピャチはすでに、無言の放射能に覆われていた。ヤニフ駅は特に、放射性降下物が大量に落ちて木々が枯死した「赤い森」に近く、最も危険な場所となっていた。しかし、そんなことは思いもしなかった。
ただ、青空市でも奇妙な出来事があった。突然警察がやってきて、農民が並べていた食品を勝手に片づけて車に詰め込み始めた。農民たちは驚いたが、なすすべもなかった。知り合いの警察官を見つけたサモヒンは理由を尋ねたが、「そうするよう命令されている。私たちも理由はわからない」と言うばかりだった。放射能に汚染された食物を食べさせないようにするためだったと知ったのは、ずっと後のことだった。
「何か起きているようだけど、自分たちは生きているし」
頭の中が混乱したまま、1日が終わった。
翌日、有線放送で「原発で事故が発生した。一時的に、3日間だけ避難せよ」と指示された。貴重品を手に、バスに乗った。それがプリピャチとの別れとなった。その夜は、バスで連れて行かれた約30キロ先の村で民家に泊めてもらい、翌日キエフに運ばれた。
「あの時知らされたのは、結局うそばかりだったのです」
避難先では新居もなかなか見つからず、サモヒンにとって生活は苦労の連続だったという。
「事故で亡くなった人もいますから、生き延びられただけでも幸運でしたが」
夕暮れが迫る部屋で、ウォッカの杯を手に淡々と体験を語ったサモヒンは、こうも言った。
「事故のことを振り返ったのは、今日が久しぶりです。嫌な思い出なので、これまでずっと、記憶から抹殺してきたのです」
事故後、原発の半径30キロ前後の地域は立ち入り制限区域に指定され、その中にあたるプリピャチにも周辺の村にも、人は住めなくなった。キエフ市内には移住者を集めた地区が誕生した。村がまるごと別の場所に移った例もある。住民の健康への不安は強く、仕事を失って困窮する人もいたという。
その中には、望郷の念のあまり、制限区域内のふるさとに勝手に帰ってしまった人たちもいる。多くは、新天地になじめなかった村落出身のお年寄りらだ。その後、彼らはどうなったのだろうか。(続く)
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