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<チェルノブイリルポ⑤>汚染された地に住み続ける「サマショール」と呼ばれる人たち

チェルノブイリ 廃虚の街から
サマショールのサワ・オブラジェイ(右)、オレーナ夫妻。その後2人とも亡くなった=2009年、ノボシェペリチ村、国末憲人撮影

【前の記事を読む】<チェルノブイリルポ④>つながらない電話、警官の奇妙な動き 住民が語るあの日

チェルノブイリ原発事故で、ウクライナ国内では半径30キロ前後が立ち入り制限区域と定められ、居住が禁止された。プリピャチ市民5万人を含め、この区域内に暮らしていた約12万人の住民は、全員立ち退きを迫られた。周囲の大地は、無人になった。

ところが、いったん避難しながら、立ち入り制限区域内の故郷にその後勝手に戻った人々がいる。「サマショール」(自発的な帰還者)と呼ばれる彼らのほとんどは、異郷での新たな暮らしになじめなかったお年寄りたちだ。

店もない、バスも通わない村で、放射能に汚染された大地を耕し、自給自足に近い生活を続ける。政府は退避を促すが、高齢者だけに無理強いもできず、電気やガスなど最低限のサービスを提供する。かといって、あまり手厚く世話をすると、他のお年寄りらの勝手な帰還を促しかねない。当局も対応に苦慮しているようだ。

私が初めて制限区域を訪れた2009年、サマショールは制限区域内全体で200人ほどいた。いくつかの村に彼らを訪ねてその生活ぶりに接し、体験談を聞いた。

原発からわずか7キロのノヴォシェペリチ村では、サワ・オブラジェイ(当時78)とオレーナ(当時75)の夫妻に会った。プリピャチの背後にあたる森の中にあるこの村は当時、人が住む場所として原発に最も近く、しかも風下にあたって汚染が激しいはずだった。2人はここでイモを栽培し、牛や鶏を飼い、川で魚を捕りつつ、暮らしを営んでいた。オレーナは、村に伝わる民話を語ってくれた。キリスト教到来以前の土着の信仰が色濃く漂う物語だった。

チェルノブイリ市近くの村で暮らすサマショールの自宅に残るこの地方独特の刺繍(ししゅう)=2009年4月、国末憲人撮影

原発の西25キロのルビャンカ村では、当時65歳で独り暮らしだったオリガ・ユーシェンコが民謡を歌って聴かせてくれた。「寂しくなったら、1人でウォッカを飲みながら歌うんだ」と語っていた。

サマショールのオリガ・ユーシェンコ。その後離村し、村は火災で大きな被害を受けた=2009年、ルビャンカ村、国末憲人撮影

2017年に現地を再訪した際は、チェルノブイリ原発から南東に20キロあまりのクポワトイェ村に足を踏み入れてみた。制限区域内ではあるものの原発の風上にあたるこの村は、事故による大きな被害を免れており、近隣では最多にあたる18人のサマショールが暮らしていた。その1人、ランナという84歳の女性宅を訪ね、暮らしぶりを聴いた。80歳の妹ソフィアとの2人で生活をしており、足腰が悪く寝たきりのソフィアの面倒を見ながら、畑を耕し、2週間に1度来る行商から肉や魚を買う、とのことだった。井戸から水をくみ上げる作業が一番大変だと話していた。

クポワトイェ村で暮らすランナとその住まい。周囲はこぎれいに整備されているが、村全体は植物が侵食し、廃虚となった家屋も多い=2017年8月、国末憲人撮影

2021年現在、制限区域内のサマショールは100人を下回る。その多くは、街の機能が保たれているチェルノブイリ市内に住んでおり、村落で暮らす人は20人ほどに限られるという。かつて訪ねた人の多くが鬼籍に入り、オブラジェイ夫妻も当局の説得に応じて村を離れた後、オレーナ、サワの順に世を去っていた。2人が暮らしていたノヴォシェペリチ村はもはや草木に覆われ、車が入れなくなったという。

ユーシェンコはその後、健康上の理由でルビャンカ村での生活を諦め、家族に引き取られたという。村にはお年寄りが計6人いたが、全員が離村した。

住民がまだ残っている村の一つは、クポワトイェ村だと聞いた。まだ12人が暮らしている。ただ、住民の間にコロナ感染者が出て心配されるという。ランナとソフィアは元気だろうか。

立ち入り制限区域内の民家に残されていたスターリンの肖像画。オメリャシコが見つけ、収集した=2009年4月、チェルノブイリ市、国末憲人撮影

制限区域では昨年、大規模な森林火災が起き、被害は区域全体の3分の1に及んだ。ルビャンカ村も約半分が焼失し、他に8村が全焼したという。

焼け残った場所では逆に、密林化が深刻だ。ウクライナ政府が観光資源として売り出す原発周辺の一部で開発が進む一方、その他の大部分はますます荒れている。

制限区域を含むウクライナ北部ポリーシャ地方は、深い森と湿地帯のため開発が遅れた地域だった。だからこそ原発の立地場所に選ばれたのであり、社会主義文化の浸透を免れた古風な儀式や芸能も残されてきた。「古代スラブの原型に近い文化」だといわれる。

原発事故は、住民とともに、そうした文化も消し去ろうとした。

ウクライナの民俗学者ロスティスラフ・オメリャシコ(66)は、この状況に危機感を抱き、文化を救い出そうと奮闘を続けている。原発事故後、火災防止を名目に家屋を破壊して整地しようとした当局を説得して思いとどまらせ、村落の建築物や民具を救った。2001年には国立文化遺産保護研究センターを設立して所長に就任し、現在に至っている。

木の枝と根からつくる一種のラッパ「トゥルバ」を手にする国立文化遺産保護研究センター所長のロスティスラフ・オメリャシコ。吹いて牛を集める。制作したのは、原発に近いノボシェペリチ村のサワ・オブラジェイ=2009年、キエフ、国末憲人撮影

この間、ポリーシャ地方の686村、事故後の住民の移住先97村を調査し、サマショールや古老らからの聞き取りを続けてきた。民具6万2000点も収集。記録した写真は18万枚、動画は7500時間分に及ぶ。その成果をもとに、2016年にはチェルノブイリ市に民俗博物館を設立した。

「広大な地域が、原発事故によって失われてしまった。そこに伝えられてきた文化を、可能な限り後世に伝えたい」

民俗学者ロスティスラフ・オメリャシコ率いる調査団の聞き取りに応じるサマショールの1人(左)=2009年4月、チェルノブイリ市近く、国末憲人撮影

オメリャシコは今、キエフでの大規模博物館設置を目指している。ただ、伝統を担うサマショールらはすでに高齢だ。故郷を離れた人々の間では、記憶も次第に薄れている。作業は、時間との闘いだという。(おわり)