【前の記事を読む】<チェルノブイリルポ②>廃虚に再現されたソ連時代の暮らし 誰が、何のために
キエフの下町で面会したスタス・ポレスキー(32)は、若々しく穏やかな男性だった。チェルノブイリ原発事故で廃虚となった街プリピャチで、荒廃した部屋を修復して事故前の生活風景をよみがえらせる企画に、夫婦で取り組んでいる。
元々は家族経営のイベント会社の幹部だった。現在は、原発事故被災地の様子を撮影した記録動画をユーチューブで発信する作業に専念する。
なぜ、それほどチェルノブイリに入れ込むのか。
「原点は私の誕生日です。4月26日なのです」
1986年4月26日は、チェルノブイリ原発事故が起きた日。ポレスキーが生まれたのは、それからちょうど3年後だ。そのような偶然が、興味を抱く最初のきっかけとなった。小学校2年生の時、原発事故の模様を先生から聞かされたことも、後の印象に残ったという。
2007年、ウクライナの企業が開発したシューティングゲーム「ストーカー」(S.T.A.L.K.E.R. Shadow of Chernobyl)が発売された。チェルノブイリ周辺の立ち入り制限区域を舞台に、様々な敵を倒しつつ主人公が進んでいくコンピューターゲームで、世界各地で人気を博する大ヒット商品となった。ポレスキーはすっかりのめり込んだ。これが、地域への関心をさらに強めることにつながった。
初めてチェルノブイリに見学で足を踏み入れたのは、同じ2007年。単なる好奇心からだったという。
ポレスキーは訪問前、プリピャチがソ連時代のままの姿で保存されているだろうと、勝手に思い込んでいた。ソ連が崩壊したのは、ポレスキーが2歳の時。だから、彼にソ連時代の記憶はない。当時がどのような生活ぶりだったのか、プリピャチに行けば知ることができると考えた。
しかし、実際のプリピャチの姿を目にして、彼は驚き、がっかりした。そこにあったのは、ソ連時代そのままの街ではなく、崩れかけ荒れ果てた廃虚だったからだ。
「ソ連時代の生活ぶりを再現したい、という考えの発端は、その時に芽生えたのです。訪れた人が『ここにもかつて人の暮らしがあったのだ』と気付いてくれる工夫が必要だと。このまま放っておくと、街自体がいずれ崩れてなくなってしまう、と心配にもなりました」
ポレスキーはそう振り返る。
以来、雪に閉ざされる12~3月を除いて、多い時は月に2度、それぞれ数日間を費やして現地に通うようになった。
その途上で考えを煮詰め、昨年3月にこのプロジェクトを自ら立ち上げた。
チェルノブイリの立ち入り制限区域は、円形ではなく、原発から北と西に大きく延びるいびつな形をしている。事故後、風は当初西に、その後北に向けて吹いており、放射性物質の多くも原発の西から北に流れたからである。このため、原発の南に当たるキエフは比較的軽微な被害にとどまり、大都市災害を免れた。逆に、原発の西方に点在する村々は、軒並み廃村となった。
この区域への一般人の入域は、南部にある検問所からに限られる。ただ、ここを通過すると入域後の行動が制限されるうえに、手数料を支払わなければならない。それを避けるため、ポレスキーはいつも隠密行動を取る。
プリピャチの部屋の修復作業に必要な材料や機材を背負い、制限区域の端まで車で行く。最初バスに乗ったら、地元の人に怪しまれ、通報されてしまった。以後はタクシーを使う。
監視の薄い場所から、区域内に潜り込む。後はひたすら徒歩の旅だ。プリピャチまでは43キロ。休まずに歩くと12時間で行き着けないことはないが、「足が棒になってしまいます」。実際には、途中休憩を入れつつ、1日半かけて行く。
当局のパトロールに見つからないよう、移動は夜間。懐中電灯をともして歩く。最近はGPSで居場所がわかるようになって、随分便利になったという。
途中には、大河プリピャチ川の支流ウシ川が流れており、3カ所に架かる橋では警察が見張っている。そこを避け、浅瀬を見つけてジャブジャブ渡る。ゴムボートを持ち込んだこともあった。
制限区域内で近年相次ぐ野火も障害だ。焼けた木に行く手を阻まれることもある。
いつも1人で行くのだろうか。
「いえ、決して1人では行動しません。ここ4年間は妻と一緒。その前は友人たちと一緒でした。野生動物がいて危険ですし、けがをする恐れもあるからです」
危ない目に遭うことは。
「一番怖いのは、夜歩いていると目だけが光ること。キツネなのか、馬なのか、熊なのかもわからない。オオカミはたくさんいます。特に冬場は、腹をすかせているから危険です」
幽霊は怖くない?
「幽霊はいませんね」
食事は?
「廃屋に入って、ガスコンロで調理をします。飲料水は、川の流れをフィルターにかけます」
放射能は気にならない?
「普段キエフで飲んでいる水も、結局同じところから流れてきていますから」
大変な旅なのに、なぜやめないのですか。
「都会の生活にはない冒険が楽しめるからです。文明社会を飛び出して、どこまで自分が耐えられるか、試してみたい。実は、2018年にチェルノブイリの公式ガイドを1年務めたのですが、冒険の醍醐味が薄いので辞めました」
奥さんは一緒に行くのを嫌がりませんか。
「この趣味は妻も共通しています。私と同じく冒険心が旺盛なのです。同じ体験をもとに、私は動画を配信し、彼女はウェブで記事を書いています。プロポーズしたのも、プリピャチのアパートの屋上でした(笑)」
当局の反応は?
「これまで11回つかまりました(笑)。直近は一昨日です。500フリブナ(約2千円)の罰金を食らいました」
それでも、正規に入域するための手数料よりも安いという。
もっとも良かった体験は?
「最も感動したのは、クラスノという村に残されているとても素敵な教会を見つけた時でした。清潔で居心地の良さそうな村でした」
これは、チェルノブイリ原発から北に6キロ、プリピャチとはプリピャチ川を隔てて対岸にあたるクラスノ村の「大天使ミハイル教会」だと思われる。村は原発事故後無人となり、教会は一時略奪を受けたが、その後元の村人らが毎年訪れて修復し、現在もかつての姿で維持されている。
チェルノブイリのツアーを企画している旅行会社の情報によると、この教会の存在を聞きつけた米国人のカップルが2015年、当局の許可を得てここで結婚式を挙げたという。
ポレスキーの活動には、法に触れる部分があり、安易に褒めそやすわけにはいかない。一方で、その試みは重要な問いかけを含んでいる。
プリピャチを訪れる人々は、その荒廃ぶりに驚き、原発事故が与える被害のすさまじさを実感する。問題は、そのような目に入る風景の背後に、すでに消えてしまった人々とその暮らしを、思い描くことができるか。
現在の姿から過去を想像することは、現在の姿から未来を想像することに結びつく。人類が積み重ねてきた愚行のいくつかは、そのような想像力を欠いていたことに起因する。ポレスキーがつくるのは、ともすれば見失いがちな想像力を呼び戻す仕掛けなのだろう。
ポレスキーの夢は、いつか当局の許可を得てアパート1棟全体を復元し、事故前の生活を伝える博物館に仕立てることだという。
ポレスキー夫妻のように、許可なく制限区域に入ってさまよい歩く人は、200人前後いるらしい。ゲームの名称にちなんで「ストーカー」と呼ばれる。日本語の「ストーカー」は、特定の人に付きまとう怪しい人物を指すが、ロシア語やウクライナ語でこの言葉は単に「追跡する人」を意味し、否定的な意味は薄い。
そのほとんどはスリルを求め、自らの限界を試そうとする若者たちだ。中には略奪や破壊に手を染める人が交じっており、遭難しかかって救助隊が出動する騒ぎを起こした例もあった。
一方で、ポレスキーのように使命感を抱く人も少なくない。村に取り残されたお年寄りたちを訪ね、安否を確認したり食料を運んだりする若者もいる。当局にとっても、時に役立つ存在なのだという。(続く)
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