【前の記事を読む】<チェルノブイリルポ①>ぴかぴかの道路と崩れそうなホテルが同居する廃虚の町
古い例だと火山灰に埋もれたローマ時代の都市ポンペイ、近年では長崎の軍艦島など、廃虚遺跡は多くの人を魅了する。崩れかけた建物を前にして、かつてそこに存在した生活を、人々は思い描く。
チェルノブイリ原発の北西2キロ余、1986年の原発事故で放射能を浴びたプリピャチの街もまた、そうした一つだろう。5万人の住民は全員避難を強いられ、以後ゴーストタウンとなっている。
観光客のためのルートが整備されたり、説明板が設置されたりしている他の多くの遺跡とは異なり、ここはまだ荒れ放題だ。木が生い茂って迷宮と化し、うっかりすると道を見失いかねない。近年は訪れる観光客が少なくないものの、公式ガイドの案内なしには立ち入れない場所だ。
ガイドのサーシャ(26)に導かれ、アパートの一棟を目指す。木々をかき分け、入り口に近づく。さび付いた郵便受けを横目に、崩れかけた階段を上がる。目に入る部屋は窓ガラスが破れ、壁がはげ落ち、家具が散乱している。床に大穴が開くところも。年月を経ただけでなく、略奪や破壊も受けたのだろう。
その中で、2部屋だけ様相が異なっていた。
一つは中層階の台所だ。真新しい壁紙とカーテンに覆われた部屋に、ソ連時代の冷蔵庫とコンロが並ぶ。テーブルの上にはテーブルクロスと食器。花瓶には花も生けられている。椅子に残る座布団の上で、つきさっきまで誰かが食事をしていたかのような錯覚にとらわれる。
同じ棟には、机とベッドが整然と並ぶ寝室もある。まだペンキが新しい壁に、ソ連全土の地図と、当時の人気歌手のポスターがかかる。かつてこのアパートに存在した生活風景がよみがえっている。
「まるでタイムカプセルを開いたみたいでしょう」と、サーシャが笑った。
このように修復を受けているのは、アパート以外にももう1カ所ある。その近くにある幼稚園跡の2部屋だ。
遊戯室にはおもちゃや遊具が配され、ピアノの上には人形が鎮座している。机の上には子どもたちが描いた絵が、あたかもさっきまで誰かいたかのように並べられている。
休憩室では、子ども用ベッドが等間隔に配置され、毛布の間には人形が眠っている。ソ連時代、入園者はお昼寝が日課で、そのための場所だという。もっとも、遊びたい盛りの当時の子どもたちにとっては、つまらない場所だったようだが。
4部屋のいずれの入り口にも、配置を崩した調度品を持ち帰ったりしないよう求める貼り紙がある。周囲から舞い込んだほこりが多少積もっているものの、良好な状態で管理維持されているようだ。
無機質で画一的なソ連型のアパートが乱立するプリピャチの廃虚の中で、これらの部屋を素人が見つけ出すのは、不可能に近い。ただ、現在50人ほどいるチェルノブイリ公式ガイドの間では知られるようになり、私のような個人の訪問者を時おり案内するという。
この企画を思いつき、実行しているのは、サーシャの知り合いでキエフに暮らす男性だという。毎月、妻と2人で何日間かプリピャチに滞在し、部屋の修復作業を続けている。比較的傷みが少ない部屋を選び、持ち込んだペンキで内装を整える。昔の家具を調達してきたり、捨てられた日用品を運んできて並べたりして、生活風景を再現する。作業が終了すると、その模様をウェブ記事や動画配信サイトを通じて発信。すでに、5部屋目にあたるアパートの1室の改修も終わりに近づいているという。
当局の許可は得ておらず、厳密にいうと違法行為だ。ただ、実際には黙認状態だという。当局関係者の中でも何人かが活動に協力しており、物資の輸送を手伝っている。話を伝え聞いた元プリピャチの住人が、自宅に残るソ連時代の日用品を寄付したりもするという。
仕掛け人は何を目指しているのか。当の人物、スタス・ポレスキー(32)に、キエフで会った。(続く)
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