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<チェルノブイリルポ①>ぴかぴかの道路と崩れそうなホテルが同居する廃虚の町

チェルノブイリ 廃虚の街から 更新日: 公開日:
シェルターに覆われた現在のチェルノブイリ原発4号炉=2021年4月22日、国末憲人撮影

砂漠や密林ならいざ知らず、欧州の一角、しかも首都から車で1時間余の場所に、これほど広大な無人地帯が広がる例も珍しい。キエフの北約100キロ、延々と平原が続くウクライナのポリーシャ地方は、そのような場所だ。

1986年、ここに位置するチェルノブイリ原発が爆発事故を起こした。放射能が広範囲にまき散らされ、その被害は欧州以外にまで及んだ。特に原発周辺地域のウクライナ北部やベラルーシ南部などの汚染は激しく、住民は立ち退きを迫られた。

以後35年が経つ。ウクライナ政府は、原発の半径約30キロ前後を今も立ち入り制限区域に指定し、入域を規制している。

大陸性の厳しい冬が終わりかけた今年4月、ウクライナ当局の許可を得て、その大地を訪ねた。

部外者が立ち入り制限区域を訪問しようとすると、入り口はただ1カ所、南部に設けられた検問所に限られる。ここで必要書類を示し、区域内に車で乗り入れる。

その途端、目の前の雰囲気が変わった。古い舗装が傷んではがれそうだったそれまでの田舎道に代わって、真新しい舗装がまっすぐ伸びている。

「ここは、ウクライナで最も快適な道路です。この国の田舎は悪路ばかりで、10キロ進むのに3時間かかるのも珍しくないのだけど」

案内役を務めるチェルノブイリ公式ガイドのサーシャ(26)が苦笑する。制限区域内では近年、道路の整備が急速に進んだという。

チェルノブイリ立ち入り制限区域の入り口となる検問所。2009年4月当時の風景(現在は専用の大型施設が完成して風景が変わっているが、撮影禁止となっている)=2009年4月、ウクライナ北部、国末憲人撮影

目新しくなったのは、道路に限らない。検問所から無人の森をひたすら走ると、オレンジ色の小さな車が道路脇に見えた。ソ連時代の大衆車ラーダを改造したパトカーなのだが、ぴかぴかに磨かれているのが、何だか変だ。実はこの車、原発事故での警察官の活動をたたえる新たなモニュメントなのだという。その横には、交番の再現らしき小さな建物と顕彰碑も建てられている。

チェルノブイリ立ち入り制限区域内に新たに設けられた警察官顕彰のモニュメント。ソ連時代のパトカーを展示=いずれも2021年4月22日、チェルノブイリ市近郊、国末憲人撮影

やがて、制限区域の中心地として政府の調査機関や消防署などが置かれているチェルノブイリ市に入る。原発から16キロしか離れていないが、風上にあたっていたために大きな被害を免れ、現在も汚染度はそれほど高くない。ソ連時代の雰囲気が漂うレトロな雰囲気の街で、市中にはいまだにレーニン像も立っている。

チェルノブイリ立ち入り制限区域内の道路。ウクライナの田舎で、これほど立派な舗装は珍しい=2021年4月22日、チェルノブイリ市近く、国末憲人撮影

ただ、この街にも少しずつ変化が生まれていた。街の中心部では、以前から整備が続けられていた記念公園が完成していた。原発事故によって移転消滅した村落をしのぶため、村の名前を一つずつ記したパネルが遊歩道沿いに並べられている。

町はずれの広場にはかつて、放射能を浴びた廃棄車両が放置され、線量計で測ると高い数値を示していた。今回そこを訪ねてみると、車両はどこかに片づけられ、ソーラーパネルが並ぶ太陽光発電施設に転用されていた。

チェルノブイリ市にあるチェルノブイリ原発事故の殉職消防士顕彰碑。こちらも近年補修されたという=2021年4月22日、国末憲人撮影

道路、モニュメント、公園、広場それぞれの整備はすべて、旅行者を受け入れるためのもの。近年進む観光化の産物だ。チェルノブイリをテーマにしたゲームやテレビドラマのヒットによって、被災地を巡るツアーにここ何年か、世界中から参加者が集まるようになった。ウクライナ政府もこれを機に、原発周辺を観光地として積極的にPRする姿勢を打ち出し、立ち入り制限区域一帯を世界遺産に登録する意向も示している。

一連の計画は、産業に乏しいウクライナ北部地方の振興にもつながると、期待を集めているという。

ただ、こうした傾向に、被災地の民俗調査を続けるウクライナ国立文化遺産保護研究センター所長ロスティスラフ・オメリャシコ(66)は懸念を示した。

「ここは悲劇の場所。娯楽気分で来る場所ではないし、そもそも場所によってはまだ放射能も高く、危険な場合がある」

彼は、世界遺産への登録についても懐疑的だった。

「広島の原爆ドームのように、悲劇のシンボルとして特定のモニュメントを登録する場合は、意味がある。ただ、制限区域全体の登録を目指すことに、何の意味があるだろうか」

2009年4月8日、廃虚プリピャチのホテル・ポリーシャ最上階からチェルノブイリ原発を望む。現在はもう、この場所には上がれない。原発も2016年に完成したシェルターに覆われ、外部からは見えなくなった=国末憲人撮影

筆者がこの地を初めて踏んだのは2009年、まだ入域が厳しく制限されているころだった。オメリャシコ率いる民俗調査団と一緒に制限区域内の村落を訪ねて回り、この地方に伝わる民俗文化の痕跡とその保存について報告した。その後、入域規制が緩んだ後の2011年に2度、2017年に1度取材で訪れ、今回は5回目の訪問になる。

この間、チェルノブイリ原発そのものの風景が大きく変わった。事故を起こした4号炉は、コンクリートで周囲を固められて「石棺」と呼ばれていた。しかし、放射能漏れが続くことから、炉全体をすっぽり覆う巨大なシェルターが2016年、国際協力に基づいて完成した。もはや、事故炉を直接目にすることはできない。

住民が消えた域内の街や村も、少しずつとはいえ、変化を隠せない。建物の崩壊と植物の侵食が進み、訪れるたびに風化の進み具合が見て取れる。

チェルノブイリ市に近いコパチ村の幼稚園の内部。荒れ放題だが、その荒れぶりを旅行者に見せる仕掛けともなっている=2021年4月22日、国末憲人撮影

一方で観光化、一方で荒廃。相反する2方向への変化が同時に起きている。

前者の典型例が区域内の舗装道路やモニュメントの整備だとすると、後者の代表はプリピャチの廃虚だろう。チェルノブイリ原発から北西に2キロあまり。事故前に原発技術者ら5万人が暮らしていたこの人工都市は、風下に当たっていたために強い放射能を浴び、居住が不可能になって廃棄された。

廃虚プリピャチのホテル・ポリーシャ。最上階は崩れかかっていた=2021年4月22日、国末憲人撮影

その中央に、ソ連時代に要人を泊めた7階建てのホテル・ポリーシャがそびえている。初めて訪ねた12年前、許可を得て中に入り、最上階から原発を眺めた。今、そこにはもう上れない。実際、下から見上げると、屋上を支えるコンクリートの柱が曲がり、今にも折れそうになっている。

2009年4月に撮影したプリピャチのホテル・ポリーシャ最上階の風景。シラカバが根を下ろしており、崩壊を助長したかもしれない=国末憲人撮影

サーシャが言う。「崩壊しそうで、とても中には入れません。最上階は、あと数日も持たないかもしれません」

ホテルの周囲に広がる街では、勝手に生い茂る木々が密度を増していた。いくつかの木は今や、中層アパート群よりも高くそびえる。街全体が森に埋もれたかのようだ。ここも観光コースに組み込まれ、訪れる人のために街の入り口付近で道路工事が進められてはいるものの、チェルノブイリ市や原発周辺に比べると「打ち捨てられた」感が強い。

草木と静寂に支配されたゴーストタウンを、サーシャに連れられてさまようように歩いた。その先に待っていたのは、意外な光景だった。(続く)

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