渋沢栄一の孫が邦訳出版を目指した韓国の海洋生物本「玆山魚譜」、映画化で注目
その渋沢敬三は、朝鮮時代の海洋生物学書「玆山魚譜(チャサンオボ)」の日本語訳版を出版する事業を進めていた。この「玆山魚譜」、韓国で今年映画化され高い評価を受けるとともに、書物の「玆山魚譜」そのものに対する関心も高まっている。日本でも映画公開を機に「玆山魚譜」の日本語版出版に向けた動きがあると聞く。
「玆山魚譜」は朝鮮時代の1800年代初頭、学者の丁若銓(チョン・ヤクチョン)が書いた海洋生物学書だが、もともと漢文で書かれていたため、1977年にハングル版が出版されて韓国の一般の人たちが読めるものとなった。現在は児童書としても出版されているほど、韓国では有名な書物だ。ところが、この「玆山魚譜」の日本語への翻訳作業がそれよりずっと以前の1940年代に進んでいた。
原本の漢文を整理して日本語に訳したものが渋沢敬三のもとに渡っていたが、間もなく終戦を迎え、戦後の混乱の中で出版には至らなかった。現在は横浜の中央水産研究所に保管されている。
日本語に翻訳したのは、1977年にハングル版を出した水産学者の鄭文基(チョン・ムンギ)だ。鄭は1929年に東京帝国大学水産学科を卒業している。ソウル大学人類学科の李文雄(イ・ムヌン)名誉教授によると、「誰よりも早く『玆山魚譜』に注目し、高く評価したのが鄭文基だった。韓国では彼の訳したハングル版によってその後研究が進み、一般の人たちにも知れわたった」と話す。
李教授が渋沢敬三について研究するようになったのは、1980年代後半、大阪の国立民族学博物館を拠点に研究生活を送ったのがきっかけだった。国立民族学博物館の母体を作ったのは渋沢敬三であり、渋沢が収集した多くの資料が寄贈されている。「朝鮮の資料が多く所蔵されているのに気付き、渋沢敬三に興味を持つようになった」と話す。
李教授は、鄭の回顧録や渋沢のメモから、1943年5月に渋沢が京城(現ソウル)を訪問し、朝鮮ホテルで鄭に会ったことを確認した。渋沢は民俗学者として朝鮮の水産学にも関心が高く、現地調査した結果を「朝鮮多島海旅行覚書」として報告書を残しているほどだ。それゆえ、朝鮮の水産学の専門家である鄭と会ったのだ。この時「玆山魚譜」の日本語版を出版する話が進んだとみられる。
1977年の「玆山魚譜」ハングル版の出版は、鄭が日本語版の出版を渋沢と約束していたエピソードを朝鮮日報の連載で披露したのがきっかけとなった。その連載を読んだ出版社「知識産業社」の代表が鄭にハングル版の出版を提案し、実現したという。1940年代に渋沢が進めた日本語版そのものは出版に至らなかったものの、1977年のハングル版出版の契機になったということだ。
韓国で今年3月に公開されたイ・ジュンイク監督の映画「玆山魚譜」は百想芸術大賞の映画部門大賞を受賞した。イ・ジュンイク監督は「王の男」「金子文子と朴烈」などで知られる監督だ。映画は「玆山魚譜」を書いた丁若銓と、それに協力した青年漁師の昌大(チャンデ)という2人の男の物語だ。2人とも実在した人物で、丁若銓は著名な学者なので多くの記録が残るが、昌大については「玆山魚譜」序文で触れられている程度で、それにインスピレーションを受けたイ監督が膨らませたキャラクターだ。丁若銓をソル・ギョング、昌大をピョン・ヨハンが演じた。
丁若銓はカトリック教徒に対する弾圧によって島流しに遭う。流刑地の黒山島(フクサンド)で海洋生物について実物に触れながら分析し、島の漁師、昌大に解説を求めて「玆山魚譜」を書いた。丁若銓の島流しを含む朝鮮時代のカトリック弾圧については人気作家金薫(キム・フン)が小説「黒山」で描き、日本でも翻訳出版されている。
映画は丁若銓と昌大の共同作業を海洋生物と共に躍動感たっぷりに描いた。モノクロの島や海の風景は水墨画のように美しい。実際の撮影は黒山島ではなく、都草島(トチョド)で行われたという。
李教授は「韓国では映画を機に改めて『玆山魚譜』への関心が高まる一方、日本では大河ドラマを通して渋沢栄一が注目を浴びている。孫の渋沢敬三が韓国で『玆山魚譜』が広く知られるきっかけを作った功績についても知ってほしい」と話す。