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「全国の子どもに乳製品を」金正恩氏、突然の指示 その背景を探る

北朝鮮インテリジェンス 更新日: 公開日:
2008年10月、北朝鮮の名勝・妙香山に遠足に訪れた北朝鮮の児童。右から2人目の児童のジャンパーには、スポーツブランドのFILAの文字が見える=安景洙・韓国統一医療研究センター長提供

■乳製品は贅沢品

10年ほど前に訪朝した専門家が平壌市内のホテルに1カ月ほど滞在した。1カ月のうち、牛乳は数回出てきた。ビンにラベルはついていなかった。ヨーグルトドリンクは1度だけ、ワインのようなボトルに入って出てきた。やはり、銘柄はなかった。チーズはついに出てこなかった。

脱北者たちは「朝鮮で牛といえば、ファンソ(黄牛)のことだ」と語る。荷車を引いたり、農耕で使ったりする貴重な労働力だが、乳牛でも肉牛でもない。

北朝鮮の畜産事情に詳しい脱北者によれば、北朝鮮で乳牛を飼育している牧場は20~30カ所しかない。乳牛の頭数は韓国の1割ほどだという。

金正恩氏は2018年8月、平壌近郊、平安南道安州市にある雲谷地区総合牧場を視察した。朝鮮中央通信が配信した写真には、乳牛の姿も写っていた。だが、この牧場は党幹部らエリート層に肉類や乳製品を供給する施設で、一般市民には手が届かないという。

2018年8月、平壌近郊にある雲谷地区総合牧場を視察した金正恩氏=朝鮮中央通信ホームページから

「大使館商店」と呼ばれている平壌の外交団が利用するスーパーのほか、ここ10年ほどの間に登場した高級スーパーなどでは、牛乳やヨーグルト、チーズも売られているようだ。

だが、それは一部のエリート層の需要を満たすか、あるいは政治宣伝のための道具でしかない。

北朝鮮では大量の餓死者を出した1990年代半ばの「苦難の行軍」の際、当時の金正日総書記が「幼い子どもたちを守ろう」と呼びかけ、「コンウユ(豆乳)」の供給を指示した。日本で売られている豆乳に比べれば、大豆を絞っただけの「おいしくもない味」(脱北者の一人)。託児所や幼稚園への配給を考えたが、十分な成果を上げたのは平壌に限られたとされる。

北朝鮮の市民が利用する市場では牛乳は売られていない。豆乳や豆乳を使ったヨーグルトはあるが、原料の大豆を輸入していた中国との国境が2020年1月から閉鎖されているため、最近はほとんど姿を消したという。

平壌オッケトンム児童病院の1階に設置された豆乳工場=安景洙・韓国統一医療研究センター長提供

数は多くないが、北朝鮮の人々が飲んだことがある「ウユ(牛乳)」はヤギの乳がほとんどだという。北朝鮮では黄海道など各地に、ヤギ牧場がある。朝鮮中央テレビも19日夜、咸鏡南道咸州郡や両江道恵山市などにあるヤギ牧場を紹介。それぞれが数百頭を飼育し、近くの幼稚園などにヤギの乳を届けていると伝えた。

ヤギ牧場ではヨーグルトやチーズが売られていることもあるが、チーズの場合、1ホールが数万ウォンもする。コメの価格が1キロ5千ウォン前後の北朝鮮では、とんでもなく高価な品物といえる。

■金正恩氏の思惑は

北朝鮮ではたんぱく質を確保するため、ウサギやカモなどの飼育を奨励している=「朝鮮の今日」ホームページから

ではなぜ、突然、子どもに乳製品を供給する政策が突然、登場したのだろうか。正恩氏は、乳製品の供給を指示した際、「祖国の未来である子どもを立派に育てること以上に重大な革命事業はない」とも語っていた。

北朝鮮は最近、「苦難の行軍」後に生まれた20代半ば以下の青少年層の統制に神経をとがらせている。最近、入手した内部文書によれば、北朝鮮は徴兵を逃れようとする若者への罰則を強化した。米韓などの音楽や映画を視聴する「非社会主義的行為」の取り締まりも強化した。国家から恩恵を受けたことのない世代は、金正恩体制を積極的に支持していないと言われる。

2018年8月、平壌近郊にある雲谷地区総合牧場を視察した金正恩氏=朝鮮中央通信ホームページから

また、北朝鮮では少子化も深刻な問題になっている。国連人口基金が4月に発表した世界人口白書によれば、1人の女性が一生に産む子どもの数を示す合計特殊出生率が、北朝鮮は1・9。韓国の1・1や日本の1・4よりは多いが、世界平均の2・4を下回った。脱北者の一人は「教育費もかかり、生計を維持するためにも子どもが負担になっている。世間体もあるので、1人だけ産むというケースも多い」と語る。乳幼児に対する福祉政策の充実は、北朝鮮にとって切実な問題でもある。

正恩氏も過去、手を打たなかったわけではない。朝鮮中央通信は昨年11月、江原道の洗浦地区畜産基地の様子を伝えた。正恩氏が、北朝鮮初の大規模畜産基地になるよう指導したという。韓国の安景洙統一医療研究センター長は「正恩氏は畜産基地の建設に力を入れてきた。人民生活の向上という、自身が力を入れる政策に活用できると考えたのではないか」と語る。

北朝鮮・江原道の洗浦地区畜産基地=「朝鮮の今日」ホームページから

ただ、畜産事情に詳しい脱北者によれば、洗浦地区畜産基地では一時、口蹄疫で牛が全滅するなどし、現在も十分な乳牛を確保できていないという。

正恩氏が冒頭の指示を行ったのは、朝鮮労働党中央委員会総会の席上だった。総会では、2月にあった総会と同じように、部門ごとの分科会が開かれた。朝鮮中央テレビは、各委員が顔を突き合わせて活発に意見交換する様子を伝えた。情報関係筋の1人は分科会形式について「政策がかけ声倒れに終わることを警戒し、目標が本当に達成できるかどうかを確認しているようだ」と語る。

ただ、乳製品の供給には乳牛の確保だけでなく、飼料など飼育環境の整備や加工工場などが必要になる。しかも要冷蔵食品だ。北朝鮮当局は洗浦地区から大都市に向かう輸送網を整備しているようだが、各家庭への電力供給が不十分ななかで、日本のように、毎朝牛乳を飲むという食習慣が定着するとはとても思えない。

北朝鮮を研究する経済専門家の一人は「正恩氏は権力を継承して10年経っても、まだ浮世離れした話をしている。パンがないならケーキを食べろと言ったマリー・アントワネットのようだ」と語る。

白頭山で乗馬する金正恩氏(中央)と金与正氏(左)。2人の馬具に星の印がついている。2019年10月16日、朝鮮中央通信が伝えた=同通信ホームページから

正恩氏はスイス留学中に覚えたエメンタールチーズが好物だという。同時期に覚えたスキーを北朝鮮にも広めようとして、江原道馬息嶺に大規模なスキー場を造営した。だが、北朝鮮でスキーを楽しむ習慣があるのは、一部のエリートや山岳警備隊員、外交団などに限られる。最近では、北朝鮮の公式メディアも馬息嶺スキー場の消息を伝えなくなった。

北朝鮮各地では今月、新ジャガイモの収穫が始まった。北朝鮮では例年、前年に収穫した穀物が底をつきかけるころ、ジャガイモの収穫が始まることで息をついてきた。ただ、長雨の影響から収穫量は前年の半分くらいにとどまる見通しだという。正恩氏が語った「食糧事情が緊張している」という状況は当面、解決されそうにもない。

脱北者の一人は「正恩氏はもちろん、中央委総会に出席したエリート層も乳製品の供給などの恩恵を受けている。乳製品よりもコメやトウモロコシなど明日の食べ物の心配をしている庶民の暮らしを理解していないのではないか」と語った。