世界で最近はジェンダーの話題が熱いです。
ジェンダー問題の解決に向けて、法律の改善、社会の理解が少しずつ進んでいるように思います。
セクハラや性的虐待を告発する「Me Too」運動によって、職場などでの男性の悪行が次から次へと明らかにされています。
男女差別と同時に、ジェンダーはいろんな性別の人間の権利の問題でもあります。
ちょっと前までLGBTという言葉を知らない人もいましたが、今は誰もがわかる単語になってきました。
でも実際には、もっともっと細かいジェンダーの分け方が存在するのです。
LGBTQIAと言います。
Lはレスビアン。女性を恋愛の対象とする女性。
Gはゲイ。男性の同性愛者を意味します。
Bはバイセクシャル。男性も女性も恋愛対象とする人です。
Tはトランスジェンダー。自分の生まれた性別と別な性別を認識する人です。トランスセクシャルとも言います。
Qはクエスチョン、またはクイア。クイアはセクシャルマイノリティに対する差別的な用語でしたが、90年代から、同性愛者が用語を認め、普通に使われるようになりました。
またクエスチェンは、自分の性自認や性的指向がわからない、決めていない人です。
Iはインターセックス。体の構造が男性、女性のどちらの典型的な特徴にも一致しない人。今は性分化疾患という用語が使われることが多くなっています。
Aはアセクシャル。同性、異性いずれに対しても性的指向を持たない人です。
つまり、ジェンダーは単純に男女のこととは言えない時代になりました。
親として、自分の子供たちにジェンダーについての教育をどうすべきか? 親にとっては頭の痛い問題です。
今までジェンダーの話と言えば、男女平等の問題でした。
男女差別をなくすための運動です。
女性は家で良妻賢母をやって、男は外で仕事をして家族を養うという固定観念をなくす人権問題です。
女性も男性も人生を選ぶ権利があり、
自分が生まれながらに持っている才能を発揮する機会が平等に与えられるべきだという主張です。
社会の中で性別による不公平な対応をなくすために、たくさんの方が改善を求めています。
こうした話を子供たちに教えるのは決して簡単ではないです。
男性は男らしく、女性は女らしくという観念は人々の思想に深く刻まれています。
自分の子供の周りもいる人も、この固定観念にしばられている場合があるのです。
例えば、祖父母、パパ、先生。皆子供たちが尊敬しなければいけない人たちです。
そんな人たちの考えは間違っている、と説得することから始めないといけないのです。
彼らよりママが正しいと教える勇気が必要です。
私も迷っていました。
でも、スタンフォード大学で初めてジェンダーについて学んだ際に、
最初の講義で聞いた話がとってもよかったのです。いい説明の仕方を教えてくれました。
忘れもしない、夜の授業でした。
「フェミニズム101」というタイトルでした。
教授は窓の外の夜空をさして、
「宇宙人は地球人を見て、不思議な生物だと思っています。性別を『男』と『女』だけで分けている。バカだなあ」と。
「男性らしい人が一方に居て、女らしい人がもう一方に居る。みんなその間にいるはずなのに」
「性はスペクトラムです。生理的な違いだけで決めてはいけないのです」と教授は続けます。
「友達の中に、女性より女性らしい男性はいませんか?男性よりも男性らしい女性はいませんか?」と私たちに聞くのです。
考えてみれば、その通り!確かにいます。
「だから、男か女かという区別ではなく、もっとその人の性格も含めて、人間として認めるべきです」
この話を長男が3歳になったときに話してみました。
分かっていたのか、分からなかったのか定かではありませんでした。
でも、その後も子供たちに、この話を何度もしました。
それが我が家のジェンダー教育の基本となりました。
そもそも、私は1987年に乳児だった長男をテレビ局の職場に連れて行ったことで、「子連れ論争」「アグネス論争」を引き起こしました。
ママは働くべきか?働くときにどんな働く方法を取るべきか?社会はどう働く女性を応援すべきか?
という問いを社会に投げかけたのです。
ちょうど少子化が問題になり、男女雇用機会均等法や育児休業法が話題になっていた時代でした。
この論争がアメリカの雑誌『タイム』に取り上げられたことで、スタンフォード大学の教授から声がかかり、博士課程でジェンダーと教育を学ぶことになりました。
そのとき私は、自分の生き方で子供たちに男女平等を教えようと思いました。
ですから、我が家では男女平等の話はよく出てきました。
発展途上国の女性、女の子のために活動をしているママの姿を見て、
息子たちは不平等の現実を認識しています。
女性も男性も平等であることは我が家では、当たり前のことになっていて、息子たちはそれを疑うことはなかったのです。
むしろどうやって、もっと女性が活躍できるように、社会を変えていかなければいけないかを考えました。
ジェンダーのもう一つの問題はLGBTQIAの問題です。
私は同性愛の友達がたくさんいます。
その中には結婚しているカップルがいます。
香港では結婚できないので、イギリスまで行って結婚しました。
レスビアンのカップルの中には親になっている人もいます。
でも、社会では差別する人もいるし、同性愛を許せないと思っている人もいます。
いまだに親に自分はゲイであることを打ち明けることができない友達がいます。
カミングアウトができないので、苦しい状況が続いているのです。
逆に自分の子供がゲイであることを受け止めることができない友達もいます。
親子関係がうまくいかない家庭が多く存在しています。
しかし、息子たちの友達はもっと自由です。
複雑に自分のジェンダーを認識している若者が大勢いることに驚きます。
「彼女はボーイフレンドと別れましたよ」と言われたので、
「新しいボーイフレンドできたの?」と聞くと、
「今度はガールフレンドです」と言うのです。
「えー、恋人は男の子から女の子になったの?」と私が驚くと、「ママ、古いよ。人を好きになるのは自然なことですよ」と言われます。
つまり、その友達は「B」なんですね。
さらに、「友達が結婚しました。でも、お互いに別の人と付き合っているんです」と言います。
「何?」よく理解できない私に、「お互いにとっても愛しているけど、自由に他の人とも付き合いたいので、そのような結婚なんですよ」と言います。
これも私にとって、新しい生き方です。
女装をし、彼女がいる人もいます。その人は「T」です。
「僕は主夫になるのが理想です」と就職活動で言い張って、
リモートで働くことができる仕事を見つけ、子育てに精を出している友達もいます。
友達にはゲイのカップルもレスビアンのカップルも、もちろん男女のカップルもいます。
でも、反対に保守的な友達もいます。
あるインド人の友達は親が選んだ人と結婚すると決めています。「女は家にいてくれればよい」と言い切ります。
モルモン教徒の友達はモルモン教徒の男性としか結婚したくないが、30歳になって、「もう婚期を逃した。私より若い女性がいっぱいいるから」と焦っているのです。結婚ができるのなら、仕事をやめて、家に入ると言います。
このような彼らはみんな息子たちの親友です。そしてお互いの生き方を理解し、受け止め、尊重しているのです。
素晴らしく見えます。
スタンフォード大学の教授は「人が生まれた時に、もっとも人生を左右するのは、人種よりも、国よりも、性別です」と言っていました。
未だに、それは一理あると思います。
世界では女性に生まれただけで不利な人生になってしまうところがたくさんあります。
まして、自分の性に悩む人や同性愛者にとっては、より人生が険しくなることもあります。
性別で人生が決まるのではなく、その人の本質、実力で人生がひらける世の中になってほしいです。
「男性が女性の存在を認め、女性のために体を張って権利を勝ち取らないと、男女平等は不可能です」といつも息子たちに言ってます。
頷いた息子たちは実行しているようです。
長男は結婚しています。
家事はなんでもやりますし、パートナーとなんでも相談しています。
2人を見てると、良い形で平等です。
自分の会社でも、女性を積極的に採用して、昇進させています。
次男はまだ一人なのですが、どんなパートナーを見つけてくるのでしょう。
「妻の尻に引かれるタイプでしょう」と兄弟に言われると、
「喜んで」と言います。優しい夫とお父さんになりそうです。
三男にはガールフレンドがいます。
「彼女は俺より優秀」と口癖のように彼女を人に紹介するのです。
彼らも良い感じでお互いに尊重しています。
ジェンダー平等の教育は家庭から。
難しい話題と思わずに、勇気を持って子供たちに教えるべきです。
やっと少し前進しているジェンダーの問題、この流れを止めないように、みんなで力を合わせて、ジェンダー平等の実現にむけて、頑張りましょう。
若者はきっとより良い未来を作ってくれると信じています。