「目の前にヒョンビンがいる。妙な気分でした」。2019年の秋。その5年前に脱北したユン・ソルミさん(35)は、列車内でアコーディオンを弾くエキストラ役として「愛の不時着」の撮影現場にいた。
北朝鮮に住んでいた15年ほど前のこと。ヒョンビンが出演したドラマ「私の名前はキム・サムスン」を見て、すぐに大ファンになった。
北朝鮮には「チャンマダン」と呼ばれる当局黙認の市場が全国に800余りある。屋台がいくつも集まったようなもので、食料や日用品、外国製品など何でも売っている。ユンも市場で買ったビデオテープやCDで韓国ドラマを見た。
「『愛の不時着』でも描かれましたけど、『天国の階段』は特に人気だった。主人公役のチェ・ジウを知らないと『もぐり』と言われたほど」とユン。
00年代後半から脱北を2回試みたがつかまり、計5年、教化所といわれる施設に入れられた。「外部と完全に隔絶され、食べ物は十分でない。私が入ったのは最も過酷といわれる施設の一つ。死体を毎日といっていいほど見ました」
3回目の脱北が成功し、14年に韓国に入国。北朝鮮で習っていたアコーディオンをいかし、韓国では他の脱北者らと楽団をつくって活動している。
「愛の不時着」の放送は韓国では20年2月に終わった。その年の5月ごろ、ユンがブローカーを通して北朝鮮内の知人と連絡を取ると、「もう見たよ」という。中朝国境を通して密輸されたものが市場に早くも出回ったようだ。
北朝鮮の内部と連絡を取り合う関係者によると、最近、韓国のドラマや化粧品などは「非社会主義的」「反動的」だとして取り締まりが強化されている。市場を管理する担当者には、韓国製品の販売業者を統制し、現物を見つければ即没収せよとの指示が出された。
米朝関係の停滞で経済制裁の解除が見込めず、そこに新型コロナウイルスの流入を防ぐ中朝国境の封鎖も加わって、北朝鮮の経済は厳しさを増す。余裕がない状況のなか、人々が韓国ドラマに触れることで不満が高まることを当局は警戒しているようだ。
ところが、その北朝鮮でも近年、K-POPの女性グループをほうふつとさせる楽団員が登場するなど、わずかに変化もみられる。韓流は、厳戒態勢が続く「38度線」を軽々と越えていく強さも併せ持っているようだ。