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マスクがニューノーマル、で本当にいいの? 「顔学会」生みの親が感じる違和感

World Now 更新日: 公開日:
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互いに顔を見せずにコミュニケーションするのは、ネットの世界では当たり前。そんな匿名ならぬ、「匿顔」がコロナ禍によって実社会にも急速に広まりつつある。マスクで顔の大部分を覆って会話するのは初め違和感もあったけど、慣れてしまえば、だんだん心地よくなってきて……。この感情は何なのか。「日本顔学会」発起人で、東大名誉教授の原島博さんに聞いた。

――「匿顔」という言葉を最初に使ったのは原島さんですね。どういう意味ですか。

「匿顔」社会という言葉を私が最初に使ったのは1995年ごろのことです。インターネットが大衆化し、顔を見せないコミュニケーションが中心になり始めた時期でした。テレビ電話の研究をしていた私は、これからコミュニケーションはどうなるのか、顔の意味とは何なのかと考え、「日本顔学会」を立ち上げました。

顔はその人が誰かを示す身分証明書であり、気持ちを伝える心の窓です。当時「2ちゃんねる」などのメディアで人が変わったような内容を書く人がいて、これは一体何なんだろうと。顔を見せなくなるとコミュニケーションの仕方が変わるのか。メディアという環境の中で自分自身が変わっていくこともありうる。きちんと考えないといけないと感じました。

――確かにネット上ではかなりストレートな物言いなど、目の前に相手がいたらしないようなやりとりもよく目にします。

ジキルがハイドになる可能性もある、と当時言ったものですが。匿顔にはマイナスもあるかもしれないけれど、一方で、プラスを生み出し、新たな時代をつくる可能性もあると思うのです。新聞の匿名情報が有用であるように、世の中には名前や顔を出してはものを言えない人がたくさんいます。顔を隠すことで、しがらみの中でできなかったことをする勇気が出せる面もある。

おおげさにいうと、村社会というのはみんなが自分の顔と名前を知っている社会で、いろんなしがらみがあります。格好いいことを言っても、「10歳までおねしょしていた人が何言ってんの」と周囲に言われてしまう。でも都会に出ると、誰もお互いに知らない匿名の社会です。10歳までおねしょをしていた人でも立派なことができるんです。それがある意味で都会のエネルギーになっていたし、近代をつくっていた。匿名性をもつことをエネルギーにして、場合によってはメディアで匿顔を持つことで、新たな時代をつくる可能性がある。そういう僕自身の関心があったんですね。

■マスクで顔から解放される

原島博・東京大学名誉教授

――コロナ禍で私たちは現実に、マスクで顔を隠すようになりました。

まさに現実の場において匿顔というキーワードが出ている今、一体何が起こるのか。僕は人というのはしぶといと思っていますから、何を新たに生み出していくのか興味深く見ています。

ラジオ局の取材を受けて聞いた事例ですが、ある市役所で、窓口の職員がコロナ対策のマスクをして対応するようになり、市民から「壁を感じる」という声が出たのだそうです。そこで、市では職員の胸に顔写真をつけるようにしたそうです。マスクで隠しているけど、こういう顔の人が対応していますよ。目だけ見ると怒っているみたいだけど、笑っている顔が中にあるんだよと写真で示したところ、市民に受け入れられたのだそうです。素晴らしい例だと思いました。

マスクの四角い部分を一種のメディアとみなし、名刺代わりに自己紹介やキャッチコピーを書けるマスクもありますね。どこまで価格を安くできるかということもありますが、動画のディスプレーでマスクを作れるなら、絵文字や口の動きをマスク上に表示してもいい。口元の動きを読み取りやすく強調して表示できれば、耳が聞こえない方や、口を大きく開けられない方がコミュニケ-ションしやすくなることも考えられます。

――マスクも悪いことばかりではないかもしれませんね。

マスクで顔から解放されることは、ある意味で素晴らしいことでもあります。近代は分業社会の時代で、「銀行員の顔」というように役割に応じた顔を求められる。でも人間はいろんな顔を持っているものです。一昔前に昼はOL、夜はディスコのお立ち台で踊る女性が話題になりましたが、どちらもその人です。

定年後も会社員の顔でしか生きられないという人がいます。神童と呼ばれて育った子が挫折し、立ちすくむ姿を私もたくさん見てきました。日頃から10%の遊びの部分をもち、良い意味で複数の顔を使いこなすことが大切だと思います。

――マスクなどがニューノーマルとして連呼されることに、違和感も感じているそうですね。

最近気になるのは、マスクをし、社会的距離をとるのが「新しい生活様式」だと頻繁に言われることです。相手に共感できる距離よりも、自分を守る距離をとることがこれからは大事だ、ともとれるような言い方で本当に大丈夫なのか。赤ちゃんをぎゅっと抱っこしてあやすように、人は相手によって距離を使い分けながらコミュニケーションするものです。

霊長類や人類学の専門家と話をすると、マスクというのは動物としてのヒトには反する行為なんですよと言われます。霊長類は直立歩行する人類になり、口を攻撃に使わなくてよくなって、長いこと時間をかけて口元が柔らかくなり、表情のコミュニケ-ションができるようになった。相手の気持ちを理解しながら共同で助け合うことを、生き延びるための戦略にできるようになったのです。

猛獣にも対応し、食べるのも遠くまで取りに行かないといけない。分担して共有し、互いに助け合うことが人間の生存戦略であり、その時重要なのがコミュニケーションだった。相手の気持ちを理解しながら助け合うことが人間の本質であり、そのときに顔は非常に重要な役割を果たしていたのです。

■なぜモナリザが「名画」なのか

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――顔は人のコミュニケーションに欠かせないわけですが、隠すとだんだん気持ちがよくなってくる気がします。なぜなのでしょうか。

顔というのはある意味ではキツイものです。正直いってね。日本顔学会ができたとき、発起人の一人で哲学者の鷲田清一さんがおっしゃったことが非常に印象に残っています。「今、顔がはんらんしているけれども、それは本当の顔ではない」という言い方をされるんですね。電車に乗ると中づり広告も顔だらけ、でもそれを顔と言って良いのか。顔というのは見られることによってこちらを緊張させるものだと。

例えばテレビにニュースキャスターの顔が大きく映る。こちらは見られていますが、朝起きてすぐのパジャマ姿だろうがなんだろうが気になりませんよね。それは顔ではない、顔らしいけれども顔の本質ではないと言うのです。顔というのは、見られているとこちらに緊張感が走るものなのだと。

電車内でメイクをする人がいますね。周りの人がその人を見ている。それでは、見ている周りの人の顔は顔なのでしょうか?それはテレビをつけながらメイクするのと同じなのではないか。そういう「顔」が増えていると言うのです。

要するに、顔というものには関係性が生まれるはずなんですね。生まれないのは顔ではないと。参考までに付け加えると「モナリザ」の顔がなぜ名画なのかというと、こちらが見られている気になるんです。なぞの微笑は馬鹿にしているのか?なんなんだと気になるんです。ダビンチは絵画として描いたかもしれないが、ちゃんと顔を描いた。そういう意味でも素晴らしいんです。

顔はある意味で緊張感を生み出す、それはけっこうつらいことでもあるんです、だから隠したときに、ある意味で安心感があるわけですよね。その気持ちもよくわかる。一方で、顔を「見る・見られる」の緊張関係の中で葛藤がうまれるのですが、それで人は成長していくものだと思うんです。顔を隠すことで、その葛藤がなくなるから気楽で快適であるという面もあるわけですが。

――つらい思いをしつつ顔を見せることで、人はどう成長するのですか?

見る・見られるという関係が生まれるということは、相手はモノではなく、自分と同じ「人」であるということを認識するプロセスがあるわけです。僕はこれは非常に重要だと思っています。顔について哲学者で一番論じているのはレビナスという人ですが、まさに顔を通じて他者を感ずる、それが重要なことなんだ、ということを言っています。自分と他者との関係を感じていくのが重要で、「なぜ人を殺してはいけないのか」とかいろんなことがそこから出てくる。

もう一つは、人間はかけがえのないものを持っている、その最たるものが命ですが、コピーできないかけがえのないものの大切さを認識するというプロセスが、非常に重要な成長だと思うんです。それはあくまで他者との関係からであって、自分1人ではできないことです。そこに葛藤がなければ僕は成長はしないものだと思うんです。他の人の気持ちを理解しながらというときに、他者を意識するという重要な意味が顔にはある。

他者との関係は絆であると同時にしがらみです。絆としがらみは表と裏の関係。家族だって絆と同時にしがらみなんです。そのしがらみが強くなっていくと、そこから逃れたいという気持ちは当然出てくる。しがらみをなくすことで気が楽になる。人間である限り仕方のないことだと思うんですけれど。

――葛藤やしがらみから逃れられるから、マスクで顔を隠すとちょっとほっとするのですね。マスクが手放せない人も出てきそうな気がします。

顔が一種の信頼関係の元になるのは、私たちがさらす唯一の裸の部分だから。だんだんとね、顔を隠すのが当たり前になると、マスクを外すのが恥ずかしくなってきますよ。外している顔を見ると恥ずかしいことのような、見てはいけないものを見てしまったような。顔を見せなくなることが当たり前になることもありうるでしょう。そのうちコミュニケーションは脳に電極を刺し、テレパシーでするようになるかもしれません。さあその時、人間と人間の関係とは何なのでしょうね。

はらしま・ひろし 1945年生まれ。専門はコミュニケーション工学。リアルとバーチャルの両面から人のコミュニケーションを技術支援してきた。