おそらく妻以外には、北朝鮮で金正恩(キム・ジョンウン)にあえて非難の矢を放つ者は誰もいない。彼のたばこ好きに対してでさえ、そうだ。
北朝鮮は11月初旬、公共の場所での喫煙を禁止し、違反者に罰則を科す新法を採択したが、これが難問を投げかけた。もし、北朝鮮で完璧な神とみなされている金正恩がこの法律を破ったらどうなるのか?
北朝鮮は何年も前から国民に禁煙を促し、公共の建物に禁煙の表示を掲げ、全国的な禁煙ウェブサイトを立ち上げた。それなのに、金正恩は喫煙に関連した病歴がある一族にもかかわらず、何年にもわたってたばこをぷかぷか吸い続けてきた。彼の部下が国民に向けて発した警告と矛盾する。
最高人民会議が11月4日に満場一致で採択した新しい「たばこ禁止法」は、その矛盾をいっそう恥知らずなものにしている。
北朝鮮国営の朝鮮中央通信は翌5日、この法律は「すべての機関、組織、市民が、国民の生命と健康を守り、より文化的で衛生的な生活環境を提供するために従うべき規則を定めたものだ」と伝えた。劇場や学校、病院などの公共領域に適用される。
金正恩に会ったことがある韓国や米国の当局者によると、彼の妻の李雪主(リ・ソルジュ)を除けば、この国には彼に喫煙をやめるよう言える者は誰もいない。孤立した全体主義国家の「最高指導者」は、間違いを犯すことがない超法規的な存在とみなされている。人びとは彼を神として扱うよう教えられる。学童も兵士も、絶えず金ファミリーをたたえる愛国頌歌(しょうか)を歌う。「あなた様なき祖国はありえません!」と。
金正恩が工場を視察したり、ミサイル技術者と言葉を交わしたり、地下鉄に乗ったり、あるいは学校や小児病院を訪問したりする時にまでたばこを吸う姿を北朝鮮の国営メディアでしばしば見かける。
首都の平壌で金ファミリーに仕えた日本のすし職人、藤本健二(訳注=仮名)によると、金正恩は10代から酒を飲みたばこを吸っており、藤本は後に回想録やインタビューでそうしたことを振り返っている。
金正恩の祖父、金日成は北朝鮮の建国者として今日もなお国民の間で広く崇拝されている。彼はしばしばたばこを手にして公共の場に姿を見せた。
北朝鮮の支配者、金ファミリーには心血管疾患の病歴がある。韓国の情報当局は、それが過度の喫煙、飲酒、肥満に起因するとみている。金日成は1994年に心不全で他界。息子で後継の金正日は2008年に脳卒中を患い、11年に心筋梗塞で死去した。金正恩自身は糖尿病や心臓血管障害、体重過多による足首の痛みなど健康上の問題に悩まされているという噂がある。
金正恩の父親、金正日は禁煙に苦労していたが、北朝鮮で最初に反喫煙キャンペーンを採り入れた。彼の有名な言葉がある。「21世紀最大の3人の愚か者はコンピューターが使えない者、歌をうたえない者、そして禁煙ができない者だ」
「たばこはあなたの心臓に突きつけられた鉄砲のようなもの」。これは、金正日政権下の北朝鮮が採用した禁煙スローガンの一つだ。
世界保健機関(WHO)によると、2017年時点で北朝鮮の成人男性の46%超が喫煙者だった。だが、脱北者たちの話だと、同国にはほかに娯楽の選択肢が少ないため、男性は10代のころからたばこを吸い始めるので実際の喫煙率はもっと高いはずだ。北朝鮮は、女性の喫煙者はいないと主張している。
脱北者によると、北朝鮮の男性の間でよく知られたジョークに、「食事をしない日があっても、たばこを吸わない日はない」というのがある。たばこは北朝鮮当局への賄賂に使われるのだと脱北者たちは言っている。
生涯にわたってたばこを吸い続けた金正日は脳卒中を患った後に喫煙をやめたが、その後また吸い出したと韓国当局。
彼の息子である正恩もまた喫煙の習慣を断ち切ることの難しさを知った。
ボブ・ウッドワード(訳注=米国の著名なジャーナリスト)の近著「Rage(レイジ=怒り)」によると、米国の核問題特使アンディ・キムは平壌で金正恩に会った際、正恩がたばこに火をつけるのを見て、健康に悪いと彼に告げた。その時、正恩のトップ補佐官の金英哲(キム・ヨンチョル)と正恩の妹の金与正(キム・ヨジョン)の両人は固まってしまった。北朝鮮では、1人の人物を除いて、彼らの指導者にそんなふうに話しかける人は誰もいない。ウッドワードは、(金正恩の妻の)李雪主がその事実を認めたとするアンディ・キムの言葉を引用している。「私は夫に喫煙の危険を伝えた」と彼女が語ったという。
北朝鮮が禁煙ゾーンの拡大政策を発表してから2カ月が経過した7月のこと。朝鮮中央テレビは、平壌に建設中の新しい総合病院を視察する金正恩の姿を放映した。
彼はたばこを吸っていたのだ。(抄訳)
(Choe Sang-Hun)©2020 The New York Times
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