■四半世紀前の11編の物語
内戦下のスーダンで撮影した「ハゲワシと少女」と題する写真でピュリツァー賞を受賞し、その直後に自殺した南アの男性カメラマンの足跡をたどる取材。1994年のルワンダ大虐殺を生き延びた老人との交流。アパルトヘイト(人種隔離)終結目前の南アで殺害された白人至上主義者の男性の妻へのインタビュー。アンゴラ紛争の資金源となったダイヤモンドを取引する闇商人との対話――。『絵はがきにされた少年』は、藤原氏がアフリカ各地で出会った人々と織り成す11の物語から構成されている。
「アフリカ各地の今」を伝えるジャーナリストの本はいくつか存在し、私もそうした本を何冊か書いてきたが、藤原氏の執筆した本書はジャーナリストの作品としては異色である。11編の物語はいずれも今から四半世紀近く前の1990年代半ば~後半のアフリカを舞台としており、2005年に出版された時点で、取り上げられている一つ一つの出来事には既に時事性もニュース性もなかった。ましてや現在からみれば、いずれの話も歴史上の出来事になりつつある。
しかし、11編の物語には、いずれも時を超えた何らかの普遍的なテーマが盛り込まれているために、物語に時事性がなくても、逆に全く「古さ」を感じさせない。むしろ、人種差別や社会の分断といった問題が注目されている今だからこそ、植民地支配や差別の歴史を生き抜いてきたアフリカの人々の言葉が読む者に刺さり、アフリカでの体験を通して自己形成を図ってきた藤原氏の考察や葛藤が重く心に響く。
■「どうして僕たち歩いてるの」
本書が向き合っているテーマの一つは「差別」である。全11章の第2章「どうして僕たち歩いてるの」は、差別意識を巡って葛藤する藤原氏の思考の軌跡が主題だ。
アパルトヘイト体制下の南アでは、自家用車を運転するのは白人、徒歩で移動するのは黒人だった。最大都市ヨハネスブルクに赴任した日本人駐在員の家族は、治安が悪いこともあり、白人と同じく自家用車で移動し、徒歩での外出は考えられなかった。積年の格差が短期間で解消するはずもなく、1994年の民主化後も「白人は車、黒人は徒歩」の図式は基本的に変わらなかった。
民主化翌年の1995年に南アに赴任した藤原氏は、赴任から3年経ったある日、インド洋に面した都市ダーバンに旅行に出かけ、ヨハネスブルクよりも少しだけ治安がいいことに気を良くして7歳の息子と街を歩いていた。すると、南アに来て以来一度も徒歩で外出したことのなかった息子が突然、「どうして僕たち歩いてるの?」と父親に問うた。
藤原氏は「歩くことの楽しさ」を説いたり、「車を運転している黒人もいる」などと説明を試みたりするが、息子はいま一つ釈然としない。4歳半で南アにやってきた息子は、物心がついてから「肌が茶色くない人」が歩いている光景を見たことがない。
父親が「人間はみな平等だ」と息子に正論を説いてみたところで、目の前の現実は全く違う。広い家に住んでいるのは白人、狭い家に住んでいるのは黒人。車を運転しているのは白人、歩いているのは黒人。身なりがいいのは白人、粗末な服を着ているのは黒人。世の中が公平にできていない現実を前にして、息子にかける言葉を失った藤原氏は本書に次のように書いた。
〈目の前の現実から目を逸らさせ、教科書に書いてあるような平等を説くことが、果たしてその子の道徳、世界観を深めるのだろうか。〉
〈子供が「どうして僕たち歩いてるの?」と聞いたのは、収まる場所のはっきりしない親に愚痴を言いたかったからではない。むしろ、自分の居場所はどこなのか、親を見ても、周囲を見てもわからない不安が、こぼれ出たのだろう。〉
■人種差別をめぐる筆者の自己問答
究極の人種差別体制ともいえるアパルトヘイトによって形成された社会に身を置きながら、差別の問題をどう考えたらよいか思い悩んだ当時の心境を、藤原氏は私の取材に次のように語った。
「人種差別の存在しない社会の方が絶対にいい。自分も差別をしない人間になりたいと思う。しかし、自分にも差別意識があるし、差別されているという意識もあることを自覚するようになったのが南アでの体験だった。人はなぜ差別するのか。どうすれば差別しない人間になれるのか。一人の人間は、国家のやっていることからどこまで自由でいられるのか。当時はよく分からなかったし、今だって答えを見つけたわけではない」
「ただ、アフリカでの経験を通して、差別を生み出す原因の一つが人間の心の中にある『不安』や『恐怖』だと考えるようになった。フツ人の強硬派によるツチ人に対する大虐殺が起きたルワンダでは、双方が『相手は何をするか分からない』『このままでは自分たちが没落してしまう』という恐怖にさいなまれ、それが相手を差別する力になっていた」
「仕事を失うかもしれないという不安。中間層から没落するかもしれないという恐怖。自分たちが少数派になるかもしれないという恐怖。不安と恐怖の中に置かれたら、自分だって誰かを差別する可能性はある。人間は不安や恐怖にさいなまれると『自分たちを守るために戦っている』と思い込んで、差別を正当化する。差別している本人は『私は差別主義者ではない』と本気で思っている。いまのアメリカがそうでしょう。白人の中にある『少数派になるかもしれない』という不安と恐怖が白人至上主義の差別意識を強め、トランプ氏はそれを巧みに利用して支持に結びつけてきた」
■命乞いする夫の射殺、テレビで見た妻
本書を貫くもう一つのテーマは「個人」である。第3章「嘘と謝罪と、たったひとりの物語」で藤原氏は、南アの白人政権が終わりを迎えてネルソン・マンデラ政権が誕生する2カ月前に起きた、ある事件に焦点を当てる。
民主化直前の南アには、アパルトヘイトの存続に固執する白人右翼組織が存在していた。1994年3月11日、マフィケンという町に白人右翼の車数十台が乗り込み混乱を引き起こそうとしたところ、武装した黒人住民との間で銃撃戦になり、白人右翼側が制圧された。右翼たちが退散する中、逃げ遅れた1台の車が銃撃され、停車した車から負傷した白人男性3人が出てきて路上にへたり込んだ。駆け付けた群衆は3人の銃を取り上げた。
1人はすぐに動かなくなったが、2人は負傷しているものの会話が可能で、このうちヤコブス・ステファヌス・アイス(通称フォニー)という男性は胸を撃たれていた。フォニーは「救急車を呼んで欲しい」と懇願したが、白人右翼への怒りに燃える黒人の群衆から「殺せ」という声がわき上がった。すると、黒人の警察官が突然2人に近付き、両手を上げて無抵抗の2人の頭部にライフル銃で計15発を撃ち込んで射殺した。
アパルトヘイト末期の南アでは、こうした事件は珍しくなかった。しかし、この事件は他の事例とは決定的に異なっていた。殺害前の状況から射殺の瞬間までの一部始終がテレビカメラによって録画され、繰り返し放映されたのである。
長年にわたってアパルトヘイトに苦しめられてきた人の中には、銃を携えて街に乗り込んできた人種差別の信奉者が頭を撃ち抜かれて死亡する様子を見て、「天罰だ」と留飲を下げた人がいたかもしれない。
しかし、負傷して丸腰で命乞いする者が射殺される様子をテレビで見て、人として越えてはならない一線を越えてしまったと感じた視聴者もいたに違いない。
そして、この事件で誰よりも衝撃を受けたのは、フォニーの妻アマリアであった。事件があった日、アマリアが何げなく自宅のテレビをつけると、そこに夫フォニーがいた。夫が両手を上げて命乞いしている場面が映ったかと思ったら画面が切り替わり、次の瞬間、夫は射殺された。彼女はテレビの映像で初めて夫の死を知ったのだった。
■型にはめた報道からこぼれ落ちるもの
事件から3年が経過した1997年、藤原氏はアマリアにインタビューし、次いでフォニーらを射殺した黒人の警察官バーンスタイン・メニャツェに話を聞く。双方の口から何が語られたのかを知りたい読者は本書を読んで欲しいが、この取材を通して読者に伝えたかったことを藤原氏は次のように語ってくれた。
「何か事件が起きると、メディアは枠を設定して事件を整理してしまう。アパルトヘイト時代の南アを描く新聞の枠組みの典型は、白人は差別主義者で、黒人は被害者というものだった。だが、アマリアにとって、この事件の犠牲者はアパルトヘイト末期に黒人の手で成敗された白人右翼の一人ではなく、最愛の夫。南アで暮らす中で、この世にたった一人しかいない個人が生きた証しを枠にはめて片付けることへの違和感が強まっていった」
「人は生まれる国を選ぶことはできない。一人の人間はたまたまそこに生を受けただけであり、好き好んでそこに住んでいるのではなく、親の都合で子供時代に移住してきた人もいれば、様々な葛藤を抱えながら暮らしている人もいる。大きな歴史のうねりの中で、誰もがある種の運命を背負って生きていることを思えば、人種、生まれた場所、民族、性別といった属性を可能な限り取り去り、全ての人に一人の個人として接したいと考えた」
今年は5月に米国で黒人男性が白人の警察官に首を圧迫されて死亡した事件を受け、人種差別に抗議する「ブラック・ライブズ・マター」の運動が広がり、差別の問題が改めてクローズアップされた年だった。
藤原氏は「この本は、差別の問題に全く無知だった当時30代の一人の日本人が、アフリカで様々な体験をしながら悩み、考え、葛藤しながら答えを探し求めた軌跡の記録。感受性の強い若い人々に読んでもらい、人間をどう見るか、差別をどうすればなくせるかといった問題を考える手助けになればうれしい」と話している。