■京大探検部長との対談を機に
梅棹氏の業績について改めて考えたきっかけは、生誕100年記念事業実行委員会事務局から依頼を受け、1月24日にオンライン講座に登壇したことであった。立命館大学探検部OBの私は現在、同部の顧問を引き受けており、オンライン講座では、京都大学探検部OBで同部部長の重田眞義・京大教授と「大学探検部・山岳部の未来を考える」をテーマに対談した。対談を前に博物館の特別展に足を運び、学生時代に読んだ『文明の生態史観』を久々に読み直し、梅棹氏にまつわるいくつかの資料に目を通した。
1956年版『経済白書』に「もはや戦後ではない」という有名な一文が記された。その年の3月2日、京大探検部は日本最古の大学探検部として発足し、梅棹氏は初代顧問の1人に就任した(顧問は全員で5人)。
日本人の海外渡航が自由化されたのは、東京オリンピックが開催された64年であり、それ以前はビジネス、外交、学術調査など特別な事情がなければパスポートを取得できなかった。そうした時代に学術調査名目の海外遠征を目標に掲げた京大探検部の発足は、海外渡航を夢見る当時の大学生たちに大きな影響を与え、各地の大学に探検部が相次いで設立されることにつながった。立命館探検部は京大探検部発足から4年後の60年に発足した。
■学生がひっきりなしに訪れた梅棹邸
京都生まれの梅棹氏は、旧制京都第1中学校の山岳部への入部を機に登山を始め、第3高等学校(3高)山岳部時代には朝鮮半島北部の白頭山に登頂した。京都帝国大学理学部進学後の41年には霊長類学の泰斗、今西錦司氏(1902~1992年)を隊長とする京都探検地理学会ポナペ島(ミクロネシア)調査隊に学生隊員として参加。翌42年には大興安嶺(中国東北部)の探検にも参加し、モンゴルでの調査などを経て帰国した後、49年に29歳で大阪市立大理工学部の助教授に就任した。
そんな探検家としての道を歩んできた梅棹氏は京大探検部顧問に就任した時、京大の教員ではなく大阪市大の教員であった。母校とはいえ京大は「ヨソの大学」であり、他大学の学生サークルの顧問を引き受けることは当時でも一般的ではなかっただろう。
しかし、当時、京大の近所にあった梅棹邸には、京大の学生や大学院生がひっきりなしに訪れ、そこでの交流の中から探検部が誕生した。梅棹氏が90歳で亡くなった翌年の2011年3月に発行された京都大学学士山岳会のニュースレター第56号別冊「特集 梅棹忠夫さんを偲ぶ」を読むと、当時の学生たちが「ヨソの大学」の先生だった梅棹氏との座談の中から諸事万端を学び、その幅広い学びから着想を得た学生たちによって探検部が誕生した経緯が浮かび上がる。
当時、探検部を立ち上げた京大生の一人で、後に朝日新聞の名物記者として数々のルポルタージュを記した本多勝一氏は、ニュースレターの追悼文に次のように記している。
「私たちは三、四人から多いときは七、八人もで夜たずねては、夜明けまで語りつづけることさえ珍しくありませんから、夫人がよく夜食を出してくれました。想えば、小学校から大学までの全教育期間・全教育機関を通じて、この『探検講座』や先生方の自宅での語らいほど真の意味で勉強になったことはありません。それは探検や学術調査についての基本的考え方から具体的方法論についてはもちろんのこと、より広く『ものの考えかた』や人生哲学にも及び、とくに梅棹先生の家では話題もローマ字論から文章論・文明論・国際語論など、いつもきりもなく間口の広い内容になりました」
一方、梅棹氏は生前、京大探検部ができた当時の状況について、本多氏の著作『カナダエスキモー』(朝日文庫)の「解説」に次のように書き残している。
「わたしは当時大阪市立大学の助教授であったが、家は京大のすぐ裏側にあったので、夜は主として京大のわかい学生たちのたまり場になった。わたしはそこで、本多たちに、探検や野外における学術研究のノウ・ハウを、力のかぎりつぎこんだのである」
梅棹氏は「本務校」である大阪市大でも東南アジア学術調査隊を組織するなどの業績を残した後、1965年に京都大学人文科学研究所助教授となり、69年に教授に昇任した。このころになると、毎週金曜夜に京大近くの梅棹邸は若い人々に広く開放され、学生や若手研究者が酒を酌み交わしながら学問分野の枠を超えて幅広い議論を展開する場となった。
■“弟子"なき梅棹氏の「教え子」たち
この集まりは「金曜サロン」「梅棹サロン」などと呼ばれ、ここから数多くの人材が巣立っていったが、興味深いのは、この「サロン」に集まった学生たちが制度的な意味での梅棹氏の「教え子」ではなかったという点だ。梅棹氏は『カナダエスキモー』の「解説」に次のように書いている。
「わたしはいまの職(国立民族学博物館長)にうつるまえは、京都大学の教授をしていたが、人文科学研究所の所属であったから、学生をもっていなかった。講義もなかった。したがって、学部の教授のような意味での“弟子"はひとりもいないのである」
ゼミや研究室の指導教員の薫陶を受けた人はこの世に多数いるだろうが、梅棹氏の場合は大学の正規のカリキュラム上は講義を担当していなかったにもかかわらず、周りには常に多くの学生がいた。
登山家として梅棹氏と親交のあった平井一正・神戸大名誉教授は、ニュースレターの「特集 梅棹忠夫さんを偲ぶ」に寄せた追悼文で、「梅棹は若い人の話をきき、彼らを育てるのに熱心であり、彼らの情熱の実現に力を惜しまなかった」と記している。梅棹氏は超一流の研究者であっただけでなく、超一流の教育者でもあった。
■忙しさ増す大学教員、「サロン」は作れるか
それから半世紀以上の時が流れ、大学を取り巻く状況は大きく変わった。梅棹氏が心血を注いだ学生相手の授業外の座談を、そのままの形で再現することはもはや不可能だろう。1960年には1割に満たなかった4年制大学進学率は現在5割を超え、大学は大衆化し、教員との座談に耐え得る基礎学力や知的好奇心を欠いている学生も珍しくなくなった。
教員の側にも余裕がない。私は新聞社など民間企業での勤務を経て2018年に大学教授に転身したが、一番驚いたことは、文部科学省の定めた基準や通達で大学の現場ががんじがらめに縛られていることだった。自らが学生だった30年前とは状況が一変しており、まじめに研究に取り組もうとする教員が、形式を整えるためだけの膨大な学内会議や書類作成に押しつぶされ、「研究環境向上のため」を理由に事務方から要求される書類の作成に追われて十分な研究時間が確保できないという、笑い話のようなことが現実に起きている。梅棹氏の時代のように大学教員が数カ月にわたって海外にフィールドワークに出かけることは、もはや相当困難な状況である。
また、夜中に多数の学生を招き入れて「サロン」を開けるような広い家に住む大学教員など、都市部ではほぼ絶滅したとみてよいだろう。座談の場所は、どこかの居酒屋にでも設定するしかない。
しかし、大学キャンパスの隅々にまで管理の網が張り巡らされ、教員も学生も窒息しかけている今の時代だからこそ、授業外での学生との座談の重要性が増しているように思う。
授業では「論理的な議論」や「正確な知識」が重視され、教員が課したもろもろの課題に応える能力の優劣が評価対象となる。
しかし、ひらめきや斬新な着想は、必ずしも論理や知識や課題回答力から生まれるわけではない。ユニークな研究計画や論文の構想は、しばしば自由奔放な発言や会話の脱線の中に萌芽(ほうが)があり、他者の言葉が引き金となって肉付けされ、形を成していくのである。適量の酒や食事は会話の潤滑油となり、相手の顔を見て語り合うことで言葉は互いの心に届き、しばしば深く刺さる。「昭和の考え」と笑われるかもしれないが、そうした時間を意欲ある学生に提供することも大学人の重要な仕事なのではないか――。博物館の特別展会場に展示された梅棹氏と若者たちの写った数々の写真を見ながら、そうしたことを考えた。