■意を決しての渡欧、世界に訴えた被害
胎児性水俣病患者で熊本県水俣市に住む松永幸一郎さん(57)は、2019年11月、不自由な体をおしてスイス・ジュネーブに行き、水俣条約締約国会議の議場で訴えた。「今、水銀を規制しないと、未来のたくさんの子どもたちが被害を受けてしまいます」と述べ、英語で「ノー・モア・ミナマタ・ディジーズ」と訴えた。
水俣病は水俣市周辺や新潟県の阿賀野川流域で起きた有機水銀中毒による公害病だ。メチル水銀をふくんだ工場排水で汚れた川や海の魚介類を食べたり、食べた親から生まれたりした患者や被害者らの苦しみは、公式確認から64年たった今も変わらない。
松永さんは1963年生まれで、水俣病の公式確認は56年。59年の時点でチッソの工場排水が原因と分かっていたが、水銀を使ったアセトアルデヒド生産工程の水は68年まで海に流されていた。松永さんは「生まれる4年前に排水が止まっていたら、私の被害はなかったかも……」と悔やむ。いまは足が悪くなり、電動車いすが欠かせない。意を決してのスイス渡航だった。
■水銀対策の重要性、日本で研修
水銀は常温(20度)で液体である唯一の金属元素だ。人への毒性が強く、分解されずに世界を循環するため、対応には国際協力が欠かせない。そこで2017年に発効したのが、水銀規制の水俣条約だ。125の国・地域が条約を批准したが、ロシアや発展途上国の一部は批准していない。途上国では火力発電所の排煙や零細小規模金採掘などが原因で、大気中の水銀濃度が高まったり、人が水銀にさらされたりするリスクが指摘される。近年も、ブラジルの熱帯雨林の河川でとれた魚から高濃度の水銀が検出されたり、フィリピンでは鉱山などが水銀で汚染されたりしたといった報告が相次ぐ。
日本による国際協力の一つが、途上国の行政官向けの研修だ。国際協力機構九州センター主催で、今年1~2月、研修生11人が水俣市などを訪れた。
条約未批准だったパキスタンからは、気候変動省のサミ・ウル・ハクさん(31)が参加。繊維産業が盛んな同国では、工場で水銀が使われるという。水俣病は高度経済成長の負の一面だっただけに、「経済が発展しても国民が暮らしていけない環境になるのが本当によいのか」と啓発に取り組む。同国は条約の批准手続きを終えたといい、近く国連環境計画(UNEP)の水俣条約事務局に報告する予定だという。
また、条約未批准のマレーシアから参加した環境・水省のノーヒシャム・アブドゥル・ハミドさん(48)は、水俣病は初期の対応が後手に回り、被害が広がったことを学んだ。同僚には「汚染を早めに検知し、法に基づく厳格な対応や工場への通報が必要だ」と伝えたという。「日本の責任者と連絡をとり、条約批准に全力を尽くしたい」
松永さんは、水俣を訪れる研修生らに「水俣病のような公害を出さないで」と伝えている。患者、被害者らの訴えが途上国の担当者の胸に響き、規制の網が広がりつつある。「条約に同意していない国はまだ多いけど、賛同する国が一つでも増えてほしい」