おきた・ゆくじ 1948年生まれ。同志社大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文化史学)。専門分野は教育史、日本思想史。同志社大学大学院教授、ハワイ大学日本研究所客員教授、中国人民大学客座教授などを歴任。同志社大学名誉教授。著書は「日本国民をつくった教育」など多数。2020年4月から、びわこ学院大学学長。
■6・3・3の「単線型」教育の始まり
本論に入る前に、日本の戦後教育がどう作られたのかを簡単におさらいしておきたい。
日本の教育は、戦前と戦後で大きく変わったはずだった。1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。日本を占領した連合軍総司令部(GHQ)は、日本政府に対して「四大教育指令」と呼ばれた命令を順次発布。軍国主義を鼓吹した教育関係者の追放、学校教育と国家神道の結びつきを除去するなどの措置が取られた。
翌年にはアメリカ教育使節団が来日し、男女共学や、教育の地方分権化などを骨格とする報告書をGHQに提出し、これが戦後の教育改革の柱となった。
これを機に「6・3・3(小学校6年、中学3年、高校3年)」の単線型の学校教育制度が導入された。それまで日本は5年制の旧制中学から医学専門学校に進めたり小学校から実業学校で学ぶことができたりするなど「複線型」の教育を行っていたが、アメリカをモデルとして「単線型」となったのは大きな変化であった。
沖田氏は、この「単線型」に疑問を投げかける。「能力と発達時期の異なる子どもたちを、6・3・3制度の中で競わせ、偏差値で階層化された学校に進級させることが、本当にGHQやアメリカ教育使節団が提唱した個性教育といえるのか」と話す。スタートの平等性は保証されたが、それ以降の知識習得を中心とする教育についていけない子供たちは「落ちこぼれ」といわれて、人生で大きなハンディキャップを負うケースも目立った。アメリカ教育使節団は「個性尊重」をうたっていたが、実際は単線化によって、画一化、偏差値重視が進んだとの見方である。
実は、アメリカにおける教育も、画一化の弊害が指摘されている。特に、2002年、ブッシュ政権の「どの子も置き去りにしない法(No Child Left Behind Act)」の施行後、「テスト偏重」傾向はさらに強まっている。教育改革家でドキュメンタリー映画「Most Likely to Succeed(成功に一番近い教育とは)」のプロデューサーでもあるテッド・ディンタースミス氏も、ここに危機感を持っていた。
【テッド・ディンタースミス氏インタビュー】米教育界の論客が映画で見せた「これからの教育」
単線型教育の「本家」である米国よりも日本のほうがさらに硬直的な面がある。たとえば、外国人が米国の小学校に入学すると、当然、英語ができないので授業についていけない。そこで、無料の「補習クラス」で底上げをしてくれるほか、数ヶ月の違いなら、学年をわざと落とすことが認められている。日本の場合は、4月1日時点で、学年が厳密に区切られてしまう。
■寺子屋の発想、現代に生かせる
日本の教育がもともとそうだったわけではない。江戸時代に広く普及し、「読み書き」「そろばん」など実学を教えていた寺子屋では、複数の学年が一緒に学び、生徒同士の「教え合い」も日常だった。「できる子」が「できない子」を教えるのは普通のこと。それは「できる子」が損をする仕組みではない。実は、一方的に聞くよりも、「人に教える」ことが、一番知識が定着したり深い学びにつながるのは、よく知られている。「寺子屋」において、先生は、いわばファシリテーターの役目だった。
沖田氏は、江戸時代の「寺子屋」の発想を現代に生かすことはできないだろうか、という。「戦前の国家主義など反省すべき点は多々あった。だが、日本の良いところも、GHQによって『封建的』とみなされてしまった」と沖田氏は残念がる。明治以降の日本の教育のモデルは、当初は、フランスやアメリカだった。明治の中期ごろからドイツ方式を採用することになったが、それらは日本の伝統的な教育観念と融合しながら、日本独特の師弟関係や学校観を築き上げてきた。だが、戦後の教育の外形的な特徴は、アメリカ一辺倒になってしまった、という。
■厳しい校則、どこから?
「単線型」は米国の影響だが、日本の厳しい校則はどこから来たのだろうか。髪型や服装についての細かい規定があったり、制服が指定されていたりする学校は多い。さらに一部の学校で、「下着の色は白のみ」などと指定したり、地毛が茶色の生徒を一律に黒く染めるよう指導したりする「ブラック校則」も問題になっている。
その点は、米国と関係はあるのか。
「それは、米国とは全く関係ないです。根っこは、明治以来ですね」と沖田氏は言う。
「明治5年の学制(フランス流の学区を導入)、富国強兵の流れの中で、軍部の流れが強まったのが背景です。日清戦争、日露戦争を経験する中で社会主義運動が出てきて、そのころから校則が厳しくなり、『異端を許さない風土』が広がっていった」
米国では、制服の指定がない学校が一般的だ。また、多くの学校では、髪の毛を染めたり、ピアスをしたりしても問題にならない。小学生がみんなランドセルを背負っているわけでもない。
「今日、どういう服を着ていくか、どういう色が好きなのか、何を食べたいのか、選択するというのは極めて基本的な人間の権利だが、それが日本の教育にはない」
中学生の「丸刈り」が一般的になったのも、明治時代の徴兵制以降だという。徴兵されると丸刈りになるが、同じように子どもたちにも丸刈りが広がった。筆者が中学生だった1970年代は、まだ中学生の丸刈りは珍しくなく、筆者自身も丸刈りだった。今、さすがに中学生の丸刈りは少ないが、野球部などは丸刈りを続けている学校も多い。教育基本法の制定などで民主主義教育がうたわれ、戦後教育は戦前とすっかり変わったと思われがちだが、沖田氏によれば、学校文化には、戦前との連続性がしばしば見られるという。
■「先生主導」と「子ども中心」の揺れ
日本は戦争に敗れ、軍国主義は深刻な反省を迫られた。そこで前述のように、GHQ、アメリカ教育使節団の影響を受けて、根本的な出直しをしたはずだった。戦後、GHQのもとにおかれた民間情報教育局(CIE)は、戦争を起こした罪を日本の国民に自覚させることを「日本人の再教育」に位置づけた。沖田学長は「日本人が戦争に至る歴史を反省すべきことはいうまでもない。だが、米国という大きな力に強制され、米国の価値観に染められたことで、主体的に反省することからかえって遠ざかってしまった」と話す。その意味で、戦後アメリカ当局が日本の教育に取り入れようとした「個性尊重」は、真に主体性を伴った「個性尊重」を目指したのか疑問、という考えだ。
日本の戦後教育に影響を与えたのは、米国の哲学者のジョン・デューイの教育思想だと言われるが、その影響も一時的なものにとどまった。
教育のカリキュラム上、日本は、教師が主導して知識の獲得を重視する「系統主義」と、子供中心で学習に望む態度や考える力を重視する「経験主義」の間で揺れている。
戦前の教育にも、大正新教育など「経験主義」が広まった時期はあるものの、教師主導の一斉授業を中心とする「系統主義」の時代が長かった。
これに対して、デューイは「学校は小社会」だととらえ、子供の自発的な活動を重視する経験主義の立場であった。その教育思想の核心は、「なすことによって学ぶ(Learning by doing)」だと言われる。
デューイの思想は、問題解決型学習(Project based learning)のベースにもなっており、戦後の「新教育」にも、このPBLが導入された。
だが、ほどなくして、PBLは、教育現場において、学力低下の原因とされ、目的なく教師が指導する「はいまわる経験主義」などと批判されるようになった。
マルクス主義の影響を受けた左派からは、PBLは、米国流に染め上げようとする教育のように見え、政府の側には、日教組がPBLを使ってマルクス主義教育をしようとしているという懸念が強まるなど、「経験主義」は、左右両陣営から攻撃を受けた。
結局、文部科学省は、学習指導要領を、文部大臣の「告示」として法的拘束力を持たせ、系統主義のカリキュラムに変更させた。ただその後も、80年代に始まった「ゆとり教育」は「経験主義」への回帰ととらえることができ、「系統主義」と「経験主義」の間の揺れは、今にいたるまで続いている。
このあたりの経緯は、小針誠・青山学院大学教授の「アクティブラーニング」(講談社現代新書)で、わかりやすくまとめられている。
■子どもの共同性が育たない原因
デューイの日本の教育への影響については、1998年に出版された「日本の戦後教育とデューイ」(杉浦宏編、世界思想社)に多くの興味深い論考がある。
この中で、佐藤学・東大教授(当時。現在は学習院大特任教授)は日本の戦後教育へのデューイの影響を検証、「戦後日本におけるデューイの受容は、端的に言えば、伝統的リベラリズムを信奉する人々によって推進された」と記している。
ここでいう「伝統的リベラリズム」とは、国家の専制的権力に対抗して、個人の自由を主張する考えのことで、自律的な個人を主体として市民社会を構成する19世紀の思想である。
佐藤氏は、日本の戦後教育が、デューイをきちんと理解せずに受容したという見方を取っている。デューイは、「自由」や「平等」について、伝統的リベラリズムが主張するような「天賦の権利」ととらえていたわけではない。「共同体(communitiy) 」こそが人々の生活を基礎づける「本質的な自然」だと位置づけていた。しかし、日本では、デューイは「個人主義」の文脈でとらえられ、「共同体」との関連は忘れ去られていた。
「顔と顔をつきあわせるコミュニケーション」が重要であり、「社会的活動(social action)としてのコミュニケーションこそが、『共同体』を蘇生させ、『公衆』を蘇生させ、『民主主義』を蘇生させる基礎である」。そして、教育は、そうした蘇生を中心的な使命とするいとなみである、というのが、デューイの考えだったと佐藤氏は整理している。
沖田学長の問題意識は、この佐藤教授の指摘と重なる部分がある。
「個人主義が共同体重視と対立する形で理解されたことが大きな問題だ。民主主義を育てる『新たな公共性・公共空間』を作り出せなかった」と話す。
戦後の教育の中で、戦前が全否定され、明治以前に存在した「村の自治」や江戸の町人が作り上げた「共同体」的なものまで否定された結果、子どもの中に共同性が育たず、いじめがはびこるような学校になってしまったというのが、沖田氏の見方である。
「日本人は、異文化を排除する側面と、包摂する面を持っている。戦前の教育の国家主義的な面を否定しつつ、個人主義と共同体的な思想を融合すべきだった。戦後、個人主義はねじれた形で根付いている。自分さえよければいい、とね。個人の尊重というのは、私もあなたもハッピーにならないといけないということ。つまり多様性の尊重です」
■「複線型」による「生涯学習」を
では、これから日本の教育はどういう方向をめざすべきなのだろうか。
沖田氏は、一つのカギは、「複線型」の復活も含め、学生生活や人生の途中で「切り替えがしやすい」教育制度にすべきだという。たとえば、看護師が一定の経験を積んだ上で、医学部に編入し、医師になるようなことが可能な教育が望ましいという。
教育界には、「複線型」については、もともと階級社会であったり格差が激しい国において、定着しやすい制度であるという見方がある。そのため、「複線型」にすることによって、格差が固定化してしまうとの懸念を持つ人もいる。
この点について、沖田氏は、「戦前の複線型は早い段階で人生が決定づけられるという欠陥を持っていたことは確かだ。その点は改め、能力の発達に応じて複線型における変更が可能となれば、個性にあった学びを自分で発見することが可能となるのではないか」と話す。
人工知能(AI)の発達などによって、人間が機械に代替されるような分野は増えてきた。
このような時代で、生徒が将来、職業を得ていくことを考えると、生徒の得意な科目、興味ある分野や個性を伸ばしていく教育の重要性は増してくる。一方で、小学校や中学時代には、生徒本人が、自分が本当にやりたいのは何なのか、得意なことは何なのか、自分ではまだ見極めがつかないケースも多い。
早熟か晩熟かにかかわらず、自らの得意分野、やりたいことを「発見」したときに、柔軟に切り替えができるような教育制度を構築すべきだ、と沖田氏は言う。
その意味で、社会人になっても学び直しが可能な、一生学び続けられるような教育制度の構築も不可欠である。今でも社会人入試はあるが、それを財政的に支えるような制度が必要だという。
芸術、スポーツ、テクノロジーなどの世界では、高校などでは、ある程度多様化は進んできたが、さらに個性を伸ばす方向の改革を求めている。大学入試については、今でもAO入試や推薦入試などがあるが、さらに多様化を進めるべきだという。
「東京芸術大学に入学するのに、数学なども含めた共通テストを受けなければならないが、アーティストを育てるための大学の試験科目として数学は必要なのか」と話す。
他方、入試科目に科さない形でも、理系も文系も、哲学を学んだり、古典を読み込んだりすることはあったほうがよいという。将来、科学者になるにしても、リベラルアーツの素養が重要だとみるためだ。
かつて民俗学者の柳田国男は前近代の「群れ」の教育を論じて、子どもたちが自ら集団のルールを作り、リーダーをつくり、そして集団の秩序を形成していった、と述べている。沖田氏は、「群れ」の中で個性を認め合う関係を子どもたちが作り出していくような姿は復活させるべきだという。前述のように、江戸時代のような「寺子屋スタイル」、複数学年にまたがる生徒同士の「教えあい」の手法も、広げていく価値があるという。一部の私立の学校では、そうした試みをすでに始めているところもある。
真に「多様性を尊重」し、地域に根ざした「共同体」も支える形の「個人主義」が広がること。そして人生のさまざまな局面で「選択可能」な教育制度にしていくこと。
そうした改革が、日本の復活を支えることになると、沖田学長は考えている。