■自由を追いすぎる先にある危険
プラトンは代表作のひとつ、『国家』(岩波文庫、訳・藤沢令夫)の第8巻で、民主制からどのように独裁政治に転げ落ちるか、その道筋を考察している。豊永さんは、こう解説する。「独裁者に憧れがちな若者に、『独裁者は不幸だ。独裁制はよくない』と説得しようとしている書でもあります。私自身、大学の授業で、『独裁と民主主義とどっちがいい?』と言う質問を学生に投げかけると、独裁制の人気の高さに驚くことがしばしばでした。プラトンの苦労が少し分かります」
豊永さんによれば、プラトンは『国家』の中で、民主主義からどのようにして最悪の政治体制である「独裁」に陥ってしまうか、典型的なパターンを見いだして示している。そこで彼が戒めているのが、「自由」への「過度の欲求」だ。
プラトンの議論をなぞれば、民主制国家が善と規定するものは、「自由」である。そして、自由の風潮がその極みに至ると、社会のあらゆるところに無政府状態がはびこる。民衆は国の統治の任にある人々を疎ましく思うようになり、民衆指導者がこれをあおる。その民衆指導者の中から、強い独裁者が生まれてくる、という。
なるほど、ここで出てくる「民衆指導者」というのは、現代の言葉に言い換えれば、まさにポピュリストということなのだろう。
豊永さんは言う。「プラトンは、こうした民衆指導者は、『雄蜂族』と呼ぶならず者たちの間から現れると言います」
え、雄蜂? ブンブンと飛ぶ、あのミツバチのことですか?
■「雄蜂族」とは
自然界では、毒針のある働きバチと違って、女王バチとの交尾の瞬間のためだけに生きる雄バチがいる。体が大きく飛ぶのも速いが、針は持たず働きもしない。それは一見、「厄介な怠け者」であると、豊永さんは説明する。
「プラトンは、政治体制の変化を語るとき、民主制に移行する前には、金持ちが支配する『寡頭制』があると説明しています。寡頭制は現代で言えば、ブルジョア社会のことですが、そんな寡頭制のもとでは貧富の格差を背景に、無為徒食のならず者たちのたぐいが生まれます。彼らのことを、『雄蜂族』と呼ぶのです。彼らは怠惰と放縦の産物であり、零落したり悪事に走ったりします。その大多数は自然界の雄バチと同様に、毒針は持たず、大したことはできません。しかし、ときに才覚があり、大胆で、毒針を持つ『雄蜂』が現れ、針のない『雄蜂』たちを従えるのです」
民主制のもとでは、こうした「雄蜂族」が政治の舞台に進出する。そもそも民主制国家とは、「政治活動をする者が、どのような仕事や生き方をしてきた人であろうと、そんなことは一向に気にも留められず、ただ大衆に好意を持っていると言いさえすれば、それだけで尊敬されるお国柄だ」とも、プラトンは説いているという。
■「甘い蜜」にひそむリスク
うーん、プラトンに言わせれば、民主制国家の政治家の多くは「ならず者」というわけか。なんだか、妙に説得力があるなあ。それだけじゃない、日本にも「雄蜂族」に当たる人たちがたくさんいそうだ。あんな人やこんな人の顔が浮かんでくるぞ。
そして、「雄蜂族」の中から独裁者を担ぎ上げる「民衆」についても、プラトンは面白い考察をしていると、豊永さんは言う。
「プラトンいわく、民衆の階層は最も多数を占め、いったん結集されると、最強の勢力になります。しかし、蜜の分け前にあずかるのでなければ、あまり集まろうとはしない。そこで、先頭に立つ指導者たちは、持てる人々から財産を取り上げ、その大部分は自分で着服しながら、残りを民衆に分配するというのです。つまり、よく信じられているように、指導者はカリスマだけで民衆に担ぎ上げられるのではなく、そこにはいつも『甘い蜜』がある、ということです。たとえば、ヒトラーのナチスがユダヤ人を徹底的に収奪し、多くの人がそこから利益を得たことが思い起こされます」
プラトンいわく、そうして権力を握った「独裁者」は、初めの何日かは誰にでも優しくほほ笑みかけて、自分が「独裁者」であることを否定し、私的にも公的にもたくさんのことを約束する。けれど、その後は絶えず何らかの戦争を引き起こす。それは民衆が指導者を必要とする状態におくためなのだという。そして、有能な人材を粛清するようになる。
いやはや、2400年前の偉大な哲人の「知恵」には、現代に通じる深い教えが詰まっていると、あらためて驚かされる。こうした独裁者誕生のパターンは今日にも通用するものであり、全てプラトンのアドバイスとしてよく覚えておくべきだと、豊永さんは言う。
■独裁転落のシグナルを見逃すな
それにしても、「自由」に価値を置く民主制が、「自由」を奪う独裁者を生み出してしまうというのは、なんとも皮肉な話である。
それは、「民主制のパラドックス」だ、と豊永さんは言う。「民主制による自由の追求のたがが外れて『何でもあり』の民主制になるとき、人々は、物事に優劣をつけない、様々な行為や欲求のどれにもダメを出さない寛容さを持ってしまう。つまり、指導的政治家がどんなに問題のある人物であっても、どんな言動をしても、タブーやルール、前例を簡単に覆して見せても、受け入れてしまう。それが独裁傾向を持つリーダーの台頭を許してしまうのです。これはまさに私たちが今、たとえば米国で、あるいは日本で、目の当たりにしていることなのかもしれません。民主制は寛大ですが、スキがある。ぎょっとするような言動の人物には、やはり気をつけた方が良い、ということです」
世界では今、民主主主義国家の人々の間で、民主主義というシステムに対する「幻滅」が広がる。米調査機関ピュー・リサーチ・センターが今年2月に発表した調査では、34カ国で平均52%の人々が、うまく機能しない自国の民主主義に「不満だ」と回答。日本も53%に上った。そんな中、「強権的」「権威的」と評される指導者が民主主義の名の下に続々と誕生し、自国民の高い支持を集めている。こんな状況を見るにつけ、プラトンが警告する独裁政治への「歯車」はどんどん加速しているようにも見えるけど……。
それでも、重要なのは民主主義を実現する意志、つまり意識的な努力だ、と豊永さんは説く。「プラトンが描いたような民主主義から独裁への転落の可能性は、議院内閣制にも、大統領制にも、直接民主制にも、同じようにあります。どれも粗悪な政治家たち、独裁者と化すような民衆指導者を宿しうるからです。プラトンが言う『雄蜂族』は、そもそも政治家になってほしくないし、その中でもとりわけ毒針を持つ雄蜂、つまり独裁者になりそうな人物を権力の座に就けてはならない。そうなるプロセスのひとつひとつを肝に銘じて用心していれば、踏みとどまる道はあると思います。プラトンが究極的に言いたかったのは、そういうことだと思います」
少し救われた気がした。なるほど、月並みかもしれないが、大切なのは知ることなのだ。民主制とはどういうものか、独裁の下ではどういうことが起きるのか。民主主義の概念の成り立ちを学んだうえで、いろいろな事例を詳しく知れば、民主主義の「危機のサイン」も、おのずと察知できるようになる。豊永さんは、最後にそうアドバイスしてくれた。
とよなが・いくこ 専門は政治学。早稲田大学教授。著書に「新版 サッチャリズムの世紀」「新保守主義の作用」など。