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シンガポール国立大はなぜアジアトップクラスの大学になれたか 改革の主導者に聞いた

グローバル教育考 更新日: 公開日:
長年にわたりシンガポール国立大学(NUS)の副学長、学長を務めたタン・チョーチュアン教授=NUSのキャンパス内で

新型コロナウイルスの感染拡大は、世界の政治・経済・社会を大きく揺さぶっている。教育もオンライン授業などの急速な拡大など変化の只中にある。新たな事態に対応する「手法」は重要だが、改めて問われるのは、感染症が改めて示した「未来が不透明な時代における教育の目的とは何か」という点だろう。そのヒントを探るため、アジアでトップクラスと言われるシンガポール国立大学(NUS)をたずね、同大がめざす姿について前学長と副学長に聞いた。(山脇岳志、写真も)

■「人こそ資源」の国で、アジアトップクラスの大学に

あれは2007年だった。日本の1人当たりGDP(国内総生産)がシンガポールに抜かれ、アジア2位になったのは。2018年で調べてみたら、シンガポールは日本の1・6倍まで伸びている。国の面積は東京都23区ほどで、人口も日本の5%以下。都市国家であり、両国の単純な比較はできない。

ただ、一つ共通点がある。天然資源に恵まれないことだ。

シンガポールは、人こそが資源だとみて、教育に力を入れてきた。政府歳出の2割近くは教育予算である。首相になるには教育大臣を務めるのが必須ともいわれる。

シンガポールの有力大学の評価も高い。イギリスの高等教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)」の最新の世界ランキングで、シンガポール国立大学(NUS)は25位。東大は36位だった。

イギリスの大学評価機関「クアクアレリ・シモンズ(QS)」の最新ランキングで、NUSは11位にランクされ、アジアでトップだった。

NUSのキャンパスをたずねたのは1月28、29日の両日。メインのキャンパスだけで皇居の1.3倍もあり、とても1日では回りきれない。3つに分かれたキャンパスに17の学部があり、約100ヵ国から4万人近い学生が集まっている。28日には、ビジネススクールや公共政策大学院などを見学したのち、29日朝、守真弓朝日新聞シンガポール支局長(当時)とともに、前学長のタン・チョーチュアン(Tan Chorh Chuan)教授に、インタビューした。

タン氏は医者であり、薬学の教授である。2008年から2017年まで、9年間、学長を務めた。2004年からの副学長時代を含めると、13年にわたり、大学の改革に携わってきた人物である。

現在は、NUSの教授と兼務する形で、シンガポール政府厚生省Chief Health Scientist(主席保健科学者)を務めている。

筆者が出張したこの時期、シンガポールでも、すでに新型コロナウイルス感染者が見つかっていた。シンガポールの空港に到着してタクシーに乗ったら、運転手に「中国人か」と聞かれ、筆者が少し咳をしたら運転手はすぐ窓を開けた。中国からシンガポールに戻ったNUSの学生は2週間の自宅待機を命じられ、街も大学にも緊張感が漂い始めていた。中華系市民が多く、世界からのビジネス客・観光客も多いシンガポールは、その後、感染者が増え、大学教育にも大きな影響を与えたが、その点はのちほど触れる。 

■大きな自律性、クリアな戦略

NUSがなぜアジアのトップクラスの大学になれたか。その点のタン氏自身の分析はどうなのか。

タン氏がまず強調したのは、大学の経営に大きな自律性(autonomy)があることが大きいという点だった。2005年にシンガポール政府はNUSを法人化し、NUSが自らの役員会をもつことで、何をなすべきか、どういう戦略をたてるべきかについて、実質的に決めることができるという。

法人化により大学運営は柔軟にでき、外部からも資金を集めやすくなったことがメリットだが、シンガポール政府からは学校運営にかかる費用の大半を助成されており、シンガポール国民のニーズに特段の注意を払うなどアカウンタビリティー(説明責任)は伴うと話した。

どんな戦略をたてるかについては、時間をかけて考えたという。どうやればシンガポールという、貿易に依存する小国に拠点を置くNUSがユニークな存在となれるか、何を大事にすべきかを考えた結果、「アジアにおけるグローバルな大学」を目指すことに決めたという。アジアは世界で最も人口が多く、経済成長が早い地域であり、世界における重要性はますます高まっていく。その認識をもとに、「グローバル」であると同時に「アジア拠点」であることのユニークさを戦略の中心に据えた。たとえば薬学の世界において、アジアが世界の他の地域と全く異なった病気への対応をして効果を上げることがあり、そうした経験をアジアのみならず、世界に広げることで貢献したいという。

また世界の移り変わりが非常に激しいことから、才能ある学生を、アジアを中心に世界中から集めると同時に、未来に役立つ技術革新(イノベーション)に貢献することを大学の大きな目的としている。

■1年の成績は度外視 再定義ともいえる改革

「大学ランキングを気にしていますか」という質問に、「注意を払っていないと言ったら、正直ではないですね。でも正直に言って、ランキングに基づいて、思考し戦略を立てることはありません」。

THEランキングは、教育環境などの評価のほか、論文が引用される数からみた研究面の影響力、外国籍の教員や留学生の割合など、さまざまな指標の合計で順位が決まる。英語で講義をするシンガポール国立大は、英語の論文数や留学生の多さという面で、もともと有利ではある。

ただ、話を聞くうち、大学の役割の「再定義」ともいえるような、改革の理念が見えてきた。印象に残ったのは――。

 ●1年生の成績は、ほぼ度外視。就職のなどの際に採用側が見る成績評価(GPA)に繰り入れない。それによって、学生が不得意科目を履修するように奨励。将来、それが役立つこともありうるから。
 ●一般教養科目で、質問の仕方、論文の書き方など「学び方を学ぶ」講義を導入。
 ●医学部で米デューク大と提携。そこでは、レクチャー方式の講義はなく、すべてグループで課題解決に取り組む授業を行う。米エール大と組み、リベラルアーツ(教養)教育にも注力。
 ●起業家養成のため、米国などの大学に留学しながら現地の企業でインターンとして働くプログラムを設けている。すでに多くの起業家が誕生。

シンガポール国立大(NUS)のキャンパス=山脇岳志撮影

■「教育とは未来のためにある」

「教育とは未来のためにある」とタン氏は強調した。タン氏はインタビューの中で「未来(future)」という言葉を30回以上使っている。世界は複雑化し、変化は激しい。大学は、新しいニーズを予期しつつ、それに応えていかなければならない。

ランキングを上げようと思うと「大学は似通ってくる」とタン氏は言う。それは良いことではなく、各大学が、それぞれの目的やどんな価値を学生や社会に提供できるのかを考えることが重要だという。

日本以上の「受験戦争」との見方もあるシンガポールだが、小学校で一部の学年の試験を廃止するなど、「詰め込み型」「テスト重視」からの脱皮を図っている。大学1年の成績を問わないのもその流れだ。狭い分野の専門家を育てても、すぐ時代遅れになりかねないため、「幅広く、深い」教育を行うことを意識しているという。

タン氏を取材する前、NUSは実学中心であり、世界的なランキングを上げるためにいろいろ手を尽くしているのでは、と想像していた。取材後、NUSに対する印象は随分変化した。

■オンライン教育の実践と課題

さて、インタビュー後に、新型コロナ感染症は、世界で爆発的に広がった。シンガポールでも厳しい外出制限がかけられたが、それでも感染者数は3万5000人を超えている。

コロナへの対応や、コロナ後のNUSの役割について変化があるかどうかなどについて聞くため、5月になって、タン氏とメールでやりとりをした。

NUSは、4月6日にすべての講義を全面的にオンライン化した。オンラインで授業ができるハードウエアやソフトウエアのインフラはすでに整っており、多くの教材はオンラインでも利用可能だった。2012年からオンラインでもパイロット授業を行うなどしていた。そのため、全面的な講義のオンライン移行も、すばやく進めることができたという。

ただ、タン氏は、「大学での学びの重要な部分は、異なったバックグラウンドの学生たちが共同でプロジェクトなどを行うことだ」で、そうした部分はオンライン講義では代替できないという。「face to faceによる学びや、小さなグループの交流は継続しなければならないと、強く信じる」とタン氏はいう。したがって、厳しい「社会的距離」の規制が解除されたあとには、直接、顔をあわせる形の講義を復活させるが、その場合も、オンライン講義も継続しつつ、小さいグループでプロジェクトを行うなどの工夫も必要になる。大学にとっての重要なチャレンジは、そうした顔をあわせる形の教育を、安全にかつ有効に行うような新しいインフラやシステムを作ることだという。

NUSの「アジアに拠点をもつグローバルな大学」というコンセプトは、「コロナ後」も変わらないという。ただ、「我々は、新しいアイデアや技術革新におけるリーダシップの養成についてさらに力を入れる必要がある」とした。「コロナ後」しばらくは、教授や生徒が物理的に国境を超えて移動することは以前より難しくはなるのは受け入れなければならないとしつつ、明るい面としては、コロナによって、学界におけるグローバルな協業が、これまでにないスピードと深さで活性化していることを挙げた。NUSは、感染症以外のグローバルな課題に対しても、グローバルな役割を果たし、未来の社会に貢献したいとした。

■20年間、いつでも戻って学べる「生涯学習」の場

1月末に戻る。タン氏との面会後、現在の副学長であるホー・テックフア(Ho Teck Hua)氏にも別途、インタビューをした。

米国に詳しく起業家育成にも熱心な、NUSのホー・テックフア副学長

ホー氏はNUSでエンジニアリングで学士、情報科学で修士号を取り、米ペンシルベニア大学ウォートン校で博士号を取得。NUSに教授で戻る前には、カリフォルニア大学バークレー校でマーケティングを教えていた。行動経済学の専門家でもある。

米国通のホー氏には、まず、NUSが力を入れている起業家の育成について聞いた。起業家を育成するために、海外留学のプログラムが創設されたのは2001年。6ヶ月から1年のプログラムがあり、海外に留学したNUSの学生は合計で3000人にのぼる。すでに600ものベンチャー企業が生まれたという。

たとえばシリコンバレーに1年間留学するコースでは、学生はスタンフォード大学などで夜間の講義を受けつつ、日中は、ベンチャー企業で働く。そこでCEOや起業家たちと日常的に会うことで、大きな刺激を受けることになるという。「中でもシンガポール人にとって大きいのは、彼らが留学後、『失敗もOKだ』と思えるようになることだ」と話す。シンガポールは失敗に寛容ではない文化があるが、一度失敗しても、二度目も三度目もあるというように思えることが、起業家が育つ上で重要だという。事業や個人の一度の失敗に厳しすぎるのは、日本とも共通する側面で、「失敗しても敗者ではない」という文化は、新たな産業が育つ上で重要だろう。

NUSの制度で最も感心したのは、卒業生が、大学入学から20年間は無試験で大学に戻れて、データ分析、金融、デジタルメディア、起業家精神、サイバーセキュリティーなど新たなスキルを学べる制度を作ったことだった。ホー副学長はその中心にいる。
2018年春に制度の創設が発表され、1年目で約千人の卒業生が申しこんだという。

この制度を作った理由を説明してもらった。「生産的な活動ができるのは、おおよそ20歳から70歳ぐらいまで。その50年のうち4年だけが教育であとの46年は働くのが今の姿だ。かつて終身雇用制度のもとで、企業が残りの長い年月、従業員のトレーニングに責任を持つ時代もあった。しかし、今は5年ごとに職が変わるような時代だ。雇用者の立場からすると、数年で去ってしまう従業員に、トレーニングをやりたいとは思わないかもしれない。だから、50年間の最初の4年だけを教育と考える制約を緩め、入学から20年間は教育期間だと考えることにした」

なるほど、変化の激しい時代だからこそ、「生涯学習」はより一層、重要になってくるのであろう。

日本の大学も、同じような制度を作れないのだろうか。教授陣を充実させれば、少子化による定員割れを懸念するような大学にとっても、卒業生に学び直しの機会を与え、学生数を増やせるチャンスにもなる。

社会に出てからむしろ学問の大切さを感じ、学び直したい、大学のときにもっと学べばよかったと思うことは多い。もっとも私が大学に戻るには、入学後20年ではなく、40年にしてもらう必要があるのだが。