新型コロナウィルスの感染防止策として、政府がスマートフォンの位置情報などを入手して人々の動きを追跡するケースが、世界で相次いでいる。携帯電話を使って感染者の移動経路を特定したり(韓国)、隔離中の人をリアルタイムで見張ったり(台湾)することは、個人にとっては普段ならあり得ない、厳しい監視でもある。日本やイギリスは、感染者が接触した人々を割り出すための携帯アプリを導入しようとしているが、その効果は疑問であることを前回指摘した。ではこの接触者追跡アプリ、私たちにどんな影響を与えるのだろうか。
勘違い、新たな混乱も
まず、コロナ感染防止になぜ接触者追跡(contact tracing)が求められるのか、目的を明確にしておこう(個人情報は基本的に目的外に使用してはならないから)。それは、感染者に接触した人に感染の可能性を伝えるとともに、周囲にうつさないよう配慮してもらう、つまり自己隔離を促す目的だ。
接触者追跡はこれまで、保健所や医療機関の専門家らが感染者からの聞き取りによって行ってきた。だが、過去40年にわたる世界的な新自由主義政策は、日本で保健所を激減させ、欧米各国でも公衆衛生に関係する医療を削減してきた。足りなくなった専門家の穴をデジタル技術で埋めよう、というわけだ。
けれど、人とアプリは同じではない。日本が導入するのと同種のシンガポールのアプリ「一緒に追跡」(TraceTogether)を開発した技術者は、アプリが「専門家が聞き取りした場合の水準には達していない」と正直に語っている。多くの政府は接触者追跡アプリを救世主のように宣伝しているが、人間と同様の精度で接触者を記録する技術は確立されていないのだ。無関係の人が接触者として隔離を課される可能性が指摘されるとともに、新たな混乱も生じている。
イギリス政府は5月、ワイト島でアプリの試験運用を始めたが、「どうやってファックスにインストールすればいいのか?」という反応から、「アプリがあるから大丈夫!」と外を出歩く人まで、様々な勘違いが地元で起きている。プライバシー擁護団体は、アプリがデータ保護法に基づく独立機関による「データ保護影響評価」を経ていないことに抗議し、議会に強力なデータ保護対策を求めている。
イギリスも日本と同じように、感染の有無を判定する検査の不足が大問題になっている。少なくとも希望する人が誰でも検査を受けられる体制がなければ、アプリが機能しないことは前回述べた。つまり、検査を含む本筋の医療体制を建て直すことが先決で、そうでなければ、アプリは税金の無駄遣いになるだけでなく、逆効果を招きかねない。しかも、それで終わりではない。
接触者追跡の元祖は…
この接触者追跡という手法がこれまでどの分野で追求されてきたのか、ご存知だろうか? それはスパイの世界。映画でCIAなどが「標的」を尾行して接触相手を探る、というシーンを見たことがあるだろう。デジタル技術が普及してから、スパイ機関はビッグデータを収集し、個人の電子の足跡を追ってきた。
世界最大のサイバー・スパイ集団は、アメリカ国防長官直属の国家安全保障局(NSA)。ここに契約職員として勤めていたエンジニア、エドワード・スノーデンが2013年、NSAが世界中の通信網に監視機器を張り巡らせてきたことを暴露した。NSAは携帯電話の位置情報や通話記録などを盗み見て、誰と誰が接触したかをあぶり出すことを、スノーデンはインタビューで私に語っている。人間関係はスパイの最も知りたい点で、例えば同じ電車に乗り合わせたとか、間違い電話であっても、諜報機関はそこに「テロ集団」とか「協力者」とかいった人間関係を想像してしまうことがある(誤った推定が、対テロ戦争での誤爆や民間人の殺傷にもつながっている)。人と人との関係をデータから正確に読み取ることは、実はとても難しい。恐ろしいのは、データ監視は何も「怪しそうな人」だけを狙うのではなく、いまや地球上すべての人々を対象にしている、という点だ。
私たちの人間関係にまつわる情報を、こうして日頃から欲しいと思っている機関が政府内にあることを、私たちは知っておいた方がいい。日本だから関係ない? いえいえ、日本にもあります、国家安全保障局。アメリカとまったく同じ性格ではないけれど、14年に発足。局長の北村滋氏は内閣情報調査室のトップ、内閣情報官を長年務め、安倍首相の最側近とされる。他に防衛省・自衛隊も、NSAと連携して日本で監視活動をしている(詳しくはこちら)。
人間関係のデータは、警察にとっては共謀罪の捜査にすぐに使える。共謀罪は、人々がなんらかの犯罪について話し合って、合意があったとされる時点で成立する。コミュニケーション自体が犯罪になるので、世論の反対があったが17年に成立した。携帯に残る接触者データから、誰と会話したかが推定できる。本来なら、刑事手続きを経て限定的に収集されるべきデータなのだが――。
企業もほしい健康データ
コロナ対策の携帯アプリの話なのに、スパイや警察が登場するのは、個人情報が本人の同意した覚えのない目的に使われることが繰り返されてきたからだ。5千万人以上のフェイスブック・データがアメリカ大統領選挙やイギリスのEU離脱国民投票(16年)の選挙活動に無断使用されたケンブリッジ・アナリティカ事件は世界を震撼させ、日本では、就活生の内定辞退予測データを企業に売っていたリクナビ問題が発覚した(19年)。ある分野で収集されたデータや発達した調査手法は、別の分野でなし崩し的に使われている。
データが欲しいのは政府だけではない。企業はこれまで率先して、個人データを発掘してきた。政府が関わるアプリを避けて、アップルとグーグルが共同開発した接触者追跡アプリを使えば、両社があなたの接触者情報、コロナ感染の有無(可能性も含めて)を入手することになる。インターネット産業でほとんど独占的な地位を占めるアメリカの両社に、国境を超えて人々の人間関係と健康についてのデータが集まるのだ。アップルとグーグルはこの膨大なデータをどう使うのだろうか。
私たちが特に注意すべきなのは、健康に関するデータは個人情報の中でも最もセンシティブなデータ、つまり自分にとって不利に使われるかもしれない情報だということだ。例えば、家族に精神疾患や被曝した人がいることを理由に就職や結婚で差別されたり、がんなどの病歴があることで医療保険の加入を断られたり掛け金が高額になったりすることは、これまで起きてきた。今回、コロナに感染した・感染しなかった、または感染した可能性が高い・低いといった情報が、将来の差別やその他の不利益につながる可能性は否定できない。
接触者追跡アプリの「感染防止」という看板の奥には、このように多くの監視の危険性が隠れている。最初に確認したアプリの目的「感染者に接触した人に感染の可能性を伝えるとともに、周囲にうつさないよう配慮してもらう」から、どれだけかけ離れていることか。日本の個人情報保護委員会は本人の同意さえあれば問題ないという立場のようだが、法律用語と技術用語に覆われた同意書を苦労して読む人は少ないだろうし、読んでも実際の利用法が書かれているとは限らない。少なくとも日本にも、もっと個人の権利を守るデータ保護の仕組みがなければ、「緊急事態」を理由に、私たちの個人情報をかき集めることは許されるべきではないだろう。私たちの人生は、コロナ後も続いていくのだから。