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【ロバート キャンベル】「迷惑」と「お互いさま」、かくもグレーな境界

World Now 更新日: 公開日:
ロバート キャンベルさん=仙波理撮影

電車の中や街中での知らない誰かのふるまいが、#迷惑行為という冠をつけて瞬時に拡散される時代。社会にあふれる「迷惑」という感情と、私たちはどう向き合えばいいのでしょうか。日本語や日本文化の歴史のなかにヒントを求め、日本文学研究者のロバート キャンベルさんに会いに、国文学研究資料館(東京都立川市)を訪ねた。キャンベルさんが口にしたのは、迷惑というネガティブに思える言葉の対極にあるように見える「お互いさま」という言葉。「お互いさま」と「迷惑」。二つの感情の間にあるものとは――。(聞き手、構成=市川美亜子)

■迷惑とお互いさまの境界線

「迷惑」は、平家物語にも使われている非常に古い日本語ですが、漢字からもわかるとおり、もとは「迷い、惑う」「困惑する」という意味で使われていました。気持ちが揺れ動き、行きつ戻りつしながら「さて、これはどうしたものだろうか」と判断に迷う。そんな時間を凝縮したようなニュアンスが、本来の語源にはあります。いま使われている「迷惑」が、言われたら、はっと身体が硬直し、ぐっと気持ちが固くなるような断定的な響きなのとは、ずいぶん違います。この語源には、いまの迷惑について考える時に大切な点がひそんでいます。

私は仕事でよく新幹線のグリーン車に乗りますが、移動中は原稿を書いたり、集中して本を読んだりする時間にあてています。料金を支払えばだれでも座れる空間ではあるのですが、グリーン車には、ある不文律が存在している。もちろん、どこかに「何デシベル以下」などと書いてあるわけではないのですが、「この空間が静かであるという価値を、お互いに守っていきましょうね」という空気のようなものです。

家族連れの人は「静かに仕事をしている人もいるから、なるべく静かにしようね」と子どもたちに注意する。一方で、仕事をしている人はイヤホンや耳栓をして、多少の騒がしさは「あすは我が身かもしれない」「10年前は私も子連れだったのだから」とやり過ごす。こうして、お互いが共感できるなかに収まっているとき、その空間には「お互いさま」が成り立っています。

ですが、この「お互いさま」は、ある一線を越えたとき、こぼれて、「迷惑」になります。先日は、新幹線のなかで、中年の男性が2人の子ども連れのお母さんをこっぴどく叱っている場面に居合わせました。わたしも心の中では「かなわないなあ、できたらデッキに連れて行ってほしいなあ」と思ってはいました。

それでも、私のその気持ちは「お互いさま」という容器の中に収まっていました。それは、その時の自分の体調や仕事、ひとりきりで子どもの面倒を見ているお母さんの様子など、さまざまな要素が重なった結果です。でも、別の人にとっては、それは容器に収まらず、「迷惑」として、こぼれだしてしまった。「迷惑」と「お互いさま」の境界線は、非常にグレーなのです。

日本語の「こぼれる」という言葉には「おこぼれをちょうだいする」「こぼれ幸い」のように、いい意味もあります。英語の“overspill”は「あふれる」というだけで、このような余情はありません。「迷惑」も同じかもしれません。迷惑にあたる英語の単語は、“nuisance” や、もう少し強い “harm” や “harassment”などがありますが、どれも悪い意味で、「お互いさま」のような言葉とは二項対立的な関係。「いいこと」と「悪いこと」があらかじめ決まっている欧米社会で、“nuisance” から「お互いさま」に入っていくというのは想像できません。

ところが、日本語の場合は「迷惑」と「お互いさま」は、メビウスの輪のようにつながっている。「いまの迷惑は、あした自分がかける迷惑かもしれない」「昨日自分も同じような迷惑をかけていたかもしれない」……。そうやって、その場に身をゆだね、様子を見ながら、公約数的な安定を保つにはどう行動すればいいのか考えるのが、日本社会です。状況により調整できる幅、可動域が与えられているのです。それは、日本特有の「余白」「クッション」のようなもので、社会にとってとても大切なものだと思います。

■なぜ迷惑か、を伝える

ひょっとして日本社会に足りないのかもしれない、と思っていることがあります。それは、誰かの行為に対して「迷惑だなあ」と思ったときに、それを冷静に見直し、相手に「なぜやってはいけないのか」の根拠を示して伝えるリテラシーです。こういう時、日本では「だって、常識でしょ?」と説明を迂回しようとするところがあります。でもそれでは、お互いの思いを知ることはできず、せっかくの可動域をいかすこともできません。

たとえば、朝のゴミ出しを考えてみます。ある人がゴミを出した後に防鳥ネットをかけないのを、あなたは迷惑だと感じているとします。まず、「なぜこのひとはいま、こうするのか」「どんな背景があるのか」と目の前に起きていることを、あえてクールな目で見直す必要があります。10人いれば、それぞれに見ているもの、聞いていることは違うからです。

防鳥ネットをかけない理由が「会社に行くために急いでいるから」だとすれば、それを上回る「やめるべき根拠」を示す必要があります。ネットをかけないとカラスがゴミを荒らしに来て、誰かが掃除をすることになる。2、3日すればもっとカラスが集まるようになるかもしれない。「だって、それ常識でしょ?」ではなく、根拠を示して「そうすべきではない」と働きかけることが大事なのです。

いま、日本の外に目を向けてみても、人種や格差など、さまざまな違いによって人々を分断する力が強くなっています。だからこそ、ある人にとっての不都合を別の人に伝える努力を通じて、お互いに何が起きているのかを確認し、思いや立場を伝え、相手の言葉に聞く耳を持つプロセスが大切だと感じます。

相手は最後まで、自分の意見に賛成しないかもしれない。けんか別れになるかもしれない。それでも、その行為が善か悪かを置いておいても、そのプロセスこそが、この社会で喜怒哀楽をともにする覚悟と希望なのだと思います。特に電子空間でのコミュニケーションが増えている現代社会で、不要な争いを回避し、かつ泣き寝入りしないために、もっと言えば、ものごとをハッピーに運ぶために重要なスキルになると思います。

■「お互いさま」の筋肉を鍛える

もともと、江戸時代の日本には、迷惑以外何者でもないような奇人、アウトサイダーたちがたくさんいました。でも、「そういう人たちこそ真実を語る」とも言われ、聖人のような扱いを受けることもあったのです。考えてみれば「寅さん」だって迷惑な存在ですが、どこか見えないところで力を与えてくれる人でもある。昔は、そういう人たちのエリアをちゃんとつくれるだけの精神的な余力があったのでしょう。

もちろん、江戸時代と今では、ひとりの人の行動の影響力も拡散力も天文学的に違う。その分だけ残響もある。それでも、そういう迷惑を許容できる余力を持ち続けられるように、栄養を送り込める社会でありたい。「迷惑だ」と感じる自分の気持ちを相手にどう伝えるかを学んでいくことで、「お互いさま」の筋肉がだんだん鍛えられていき、そのグラデーションのなかで、その人らしさを「見過ごす」ことができるようになれたらいいな、と思います。

Robert Campbell 米ニューヨーク生まれ。1985年に九州大学文学部研究生として来日。専門は江戸後期から明治時代の文学。テレビのMCやニュース・コメンテーターとしても活躍し、文芸ジャンルを超えて、日本の芸術、メディア、思想などにも造詣が深い。東京大学名誉教授。国文学研究資料館館長。