被災地の人々に懇願され、撮影を決意
――震災から9年が経ちます。映画の完成から3年がたちました。
オオハマ: この間、多くの方が亡くなりました。昨年の台風でふたたび被災した地域もあります。昨年やっと仮設住宅から出て、新しい家に移り半年で被災した人もいました。年配の方々にとっては、相次ぐ災害で9年前の記憶がトラウマのようによみがえってしまうようです。
東北の人たちは震災でたくさんのものを失い、たくさん嘆き、少しずつ生きる気力を取り戻してきました。映画は彼らが苦悩しつつも再生に向かう姿を描いていますが、現実は過酷です。震災前は愛着のあるわが家に住み、温かいコミュニティーに暮らしていたのに、震災後、狭い仮設住宅で近所付き合いもなくなり、以前の暮らしを取り戻せずに一生を終えていく人たちもいます。こんなに豊かな国でこうした現実が起きている。人生はなんて不公平なのかと思います。
何度も打ちのめされ、立ち上がってきた彼らのために私ができることは寄り添うことだけ。彼らの気持ちに共感し、どんなに強い人間であるかを思い出してもらいたい。生きていることに価値があるのだと、様々な手段で伝えていきたいと思っています。
――その手段の一つが映画なのですね。カナダに住む監督が、なぜ震災の映画を撮ることになったのですか。
オオハマ: 2011年3月当時、私は広島・尾道を舞台に映画を撮る準備を進めていました。脚本も完成し、現地入りを待つところで震災が起きた。ニュースを聞いた当時6歳の孫娘の「東北の子どもたちがいま一番欲しいのは誰かのハグ(抱擁)だと思う」というひと言で、カナダの子どもたちから東北の子どもたちへ、連帯と支援のメッセージを描いた「クロス(布)メッセージ」を送る活動を始めました。
カナダ中から集まった布をみんなで縫い合わせ、巨大なキルトを作って震災の3カ月後に東北の小学校に届けました。それ以降、各地にキルトや支援物資を届ける活動を続けたんです。
宮城・女川では高台の総合運動場内に設営された仮設テントの一角に1人用のテントを立て、地元の人たちと生活を共にしました。ボランティアを通じて東北の各地でたくさんの人と知り合いました。
私の職業が映画監督だと知ると、彼らは口々に「私たちの姿を映画に撮ってください」と言いましたが、外国人で一介のボランティアの私には震災の映画を撮る資格はない、無理ですと断り続けていました。
でも、津波被害に遭った岩手県大槌町の鍼灸師の女性から「私たちが被災後の日々をどうやって生き抜いているか、日本の人たちに知ってほしい。力を貸してください」と涙ながらに懇願されたり、原発事故で被災した福島県南相馬市の警戒区域を訪れ、命の気配がしない町の姿に戦慄して涙が止まらなかったりする体験を重ね、映画を撮ろうと決意しました。
シャイな東北な人々が、ハグしてくれるまで
――外国人の監督が、日本の地方、それも被災地で映画を撮る上での苦労はありましたか。
オオハマ: そりゃあ大変でした。通常の映画の撮影にはカメラマンがいて、音響係がいて、監督は全体のとりまとめを考えればいい。今回はまったくの手弁当だったので節約に節約を重ね、カメラと録音機材を担ぎ、通訳もつけずに東北じゅうを動き回りました。被災地では食料品も手に入りにくく、軽くて保存が効く菓子パンばかり食べていたら、制作途中で疲労と栄養不足で倒れてしまった。もう二度と同じことはできないです(笑)。
――映画が完成したときには震災から5年が経っていました。
オオハマ: 東北の人たちは基本的にシャイ。最初はみな緊張しています。2度目に会うと「こんにちは」と挨拶してくれて、3度目には「お茶を飲んでいきませんか」と誘われ、それから食事に招かれ、会うたびにハグしてくれるようになり……。彼らが私の前で泣き、本音を語り、真の強さを見せてくれるようになるまでに、まず数年が必要でした。
制作費も自分で調達しなければならなかった。撮影用のカメラさえなかったのです。ボランティアの合間を縫って、各地の大学で移民史や映画をテーマに特別講義をして制作費を工面しました。趣旨に賛同して講義の機会をくれた大学には本当に感謝しています。映画の完成はミラクルとしか言いようがない。
日本人ではないから聞けた言葉
――東北の人たちは、なぜ外国人の監督に映画を撮ってほしいと頼んだのでしょう。
オオハマ: 「リンダにはおれたちの話はわからないだろう」と思っていたのではないかしら(笑)。だから正直な心の内を自由にしゃべれたのでしょう。実は1週間だけ日本人カメラマンに手伝ってもらったことがありました。私が体調を崩し、真冬の撮影がとてもしんどかったので。ところが、知り合いの東北の人のもとを訪れると普段と様子が違う。全然しゃべらないのです。その時、日本人同士だと逆に言いたいことが言えないのかな、と感じました。
なぜ彼らが“記録者”として私を選んだのか、今なら理解できる気がします。私は100%日本の血を引く日系人であり、違う言葉を話す外国人でもあります。この絶妙な距離感が、被災地の取材という複雑で繊細な感情を伴う作業にとても有効に働いたのだと思います。東北の被災者たちは、自分と風貌が同じ私に心を許してくれる一方で、同じ日本人に抱く複雑な感情も「よそ者」の私には吐露してくれました。
――いま、だれに一番この映画を見て欲しいですか。
オオハマ: 被災地以外の地域に住む日本の人たちです。東北の人たちにとってはまだ傷痕が癒えていないかもしれない。でも多くの日本人にとって東北は遠すぎて、3.11の記憶も簡単に忘れ去ってしまえる。
東北の人たちは土地や歴史や文化と深く紐づいて生きています。どこの地方もかつてはそうでしたが、東北はとりわけその紐帯が強いと感じます。彼らの暮らしや生き方をもっと日本の人たちに知ってほしい。
最近、東北の人たちから続編をつくってほしいと頼まれるのです。「東北がどう変わったか、私たちが何を成し遂げたかを伝えてほしい。『東北の満月』を見せたいのです」ってね。
(取材・文/後藤絵里)