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地獄を味わったから強くなった パラリンピアンを目指す水泳選手の人生論

ニューヨークタイムズ 世界の話題
FILE -- Morgan Stickney at the United States Olympic and Paralympic Training Center in Colorado Springs, Colo., on Feb. 11, 2019. She set remarkable times in the 100- and 400-meter freestyle months after a below-the-knee amputation of her left leg. (Rachel Woolf/The New York Times)
コロラドスプリングスにある米オリンピック・パラリンピック・トレーニングセンターでの強化合宿に参加したモーガン・スティックニー=2019年2月11日、Rachel Woolf/©2019 The New York Times。このときは、右足にはまだ痛みが出ていなかった

水泳の米国代表としてパラリンピックを目指していたモーガン・スティックニーにとっては、悪夢のようなできごとだった。

もともとは、オリンピックを夢見ていた。しかし、足の病で2018年5月に左のひざの下を切断した。20歳だった。

でも、不屈の魂でこれを乗り越えた。手術まで5年も続いていた激しい足の痛みは消え、強力な鎮痛剤に依存することもなくなった。そして、プールに戻ることができた。

数カ月もすると、100メートルと400メートルの自由形で好記録を出した。コロラドスプリングスにある米オリンピック・パラリンピック・トレーニングセンターでの強化合宿に招かれるようになった。20年夏の東京パラリンピック出場という新たな夢が膨らんだ。

ところが、ある日、右足に痛みを感じた。X線写真を撮ると、骨折していた。医者は、治るからといってくれた。しかし、悪い予感におののいた。

それが、あたってしまった。痛みは、何週間も続いた。19年6月には、トレーニングセンターを引き払い、ニューハンプシャー州ベッドフォードの自宅に帰ることになった。

その間、医療チームは、なんとか痛みの根本原因を突き止めようとした。なぜ、右足がじわじわと機能を失ってしまうのか……。

「今度は、もう永久に泳げなくなると思った」とモーガンは振り返る。「2、3週間、夜になると、ただただ泣いた」

父トニー・スティックニーが、迎えにきた。身の回りのものの荷造りをして、娘を連れて帰らねばならなかった。人生で、最もつらいできごとの一つとなった。

娘は、10代の終わりにあれほどの痛みを一人で耐え続けた。手術後は、鎮痛剤に頼る暮らしを終わらせ、自力でプールに復帰し、かつてのあの笑顔をよみがえらせてくれた。

そのすべてが、再び失われてしまったのだった。

帰りの機中で、トニーは泣いた。「8カ月前の笑顔でよみがえったあの幸福感が、どこかに行ってしまったと思うと、大粒の涙が止まらなかった」

しかし、現実はさらに悪い方へと進んだ。

モーガンの痛みは、ひどかった。再び、強い鎮痛剤に依存するようになった。1日に20錠も飲むことがあり、両親は過剰摂取で命に関わるような事態になることを恐れた。

数カ月にわたって、何人もの医者に診てもらった。

最終的には、心臓血管の異常でひざから下に血が流れなくなっていることが分かった。血管の造影図は、ふくらはぎで血流が止まっていることを示していた。その先には血が循環せず、骨が壊死(えし)しつつあった。

この診断結果で、左足の骨折が治らなかったことも、最初の切断が必要だったことも、説明がついた。

今回も、他には選択肢がないことを診察医たちは認めざるをえなかった。22歳で、再びひざから下を切断する必要があった。

恐ろしかった。でも、全力を尽くして打ち勝とうとした。

19年10月8日。手術室にストレッチャーで運ばれるモーガンは、切断部分を見えなくしていた布をどけるよう看護師に頼んだ。一目、自分の足を見ておきたかった。

手術の直後から3日間、モーガンと家族は計り知れぬほどの苦痛にさらされた。硬膜外麻酔が効かなかった。モーガンは、切断手術による拷問のような痛みを抑える措置もないまま、一度に何時間も耐えねばならなかった。硬膜外麻酔を効くようにするための薬剤の調合に手間取ったからだ。

「見るに忍びなかった」とトニーはいう。「いたたまれずに『神よ、どこにおられるのか』と祈りの言葉をつぶやいたほどだった」

その後の2日間、モーガンの意識は混濁状態にあった。顔には汗が噴き出し、叫び声が廊下に響き渡った。父の手を、骨が折れるのではないかと思うほど、きつく握りしめた。

ある晩遅く、モーガンは知人あてに短い文章をしたためた。「もう、だめ」とあった。

「まさに拷問そのものだった」。翌11月に取材すると、真顔でそういった。「もし、立ち上がるのに必要な片方の足があったら、窓から身を投げていただろう。大げさでも、なんでもない」

10月12日。激痛を緩和する神経系の遮断措置をとったことで、痛みは何とか耐えられるまで和らいだ。

トニーは、笑みを浮かべられるようになった娘の写真を撮った。モーガンの心には、プールに戻る希望がともった。そして、表彰台を目指す努力が始まった。

FILE -- Morgan Stickney practices at the United States Olympic and Paralympic Training Center in Colorado Springs, Colo., on Feb. 11, 2019. She set remarkable times in the 100- and 400-meter freestyle months after a below-the-knee amputation of her left leg. (Rachel Woolf/The New York Times)
米オリンピック・パラリンピック・トレーニングセンターで泳ぎ込むモーガン=2019年2月11日、Rachel Woolf/©2019 The New York Times

続く3週間をボストンのリハビリ施設で過ごした。ひざから下が両方ない暮らしを覚えることは、ベッドで起き上がる訓練から始まった。手術後10日で、あらゆる鎮痛剤の使用をやめた。

11月の初めには自宅に戻り、モーガンの「新しい日常」が始まった。

義足で動けるようになるまでは、三つの車椅子が必要だ。自宅の1階と2階に、さらには家を出て車にたどり着くまでにそれぞれ1台を配置した。階段は、腰を下ろした状態で上り下りする。その辺を動くだけなら、トニーがおんぶをしてくれる。

そんなことをしながらも、モーガンは大学のオンライン講座をとり、医学の道に進む望みを捨てないでいる。

でも、まずは泳ぎを再開したい。12月下旬の段階で、自分のクラウドファンディングのページには11万7千ドルを超える寄付が集まった。その一部で、水泳選手がプールの外で上半身を鍛えるのに使う器具を購入した。

やるべきことは多く、道のりは長い。2024年のパラリンピックを目標に据えているが、もしかしたら東京だって可能かもしれない。

20年4月に米インディアナポリスで開かれるパラリンピック・ワールドシリーズへの招待状が届いている。すべてが順調に行けば、コロラドスプリングスの合宿に復帰し、東京パラリンピックの出場選手に選ばれることだってありうる。

再び歩けるようになることから学ばねばならない今のモーガンは、東京の話となると、やはり控えめになる。

それでも、「地獄を味わってきたからこそ、強くなったところだってある」と前を向く。

そして、こう続けた。

「完璧な人生ではなくとも、幸せをつかむことはできる――そんなことを示せるようになりたい」(抄訳)

(David Waldstein)©2019 The New York Times

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