■名所に響く警察官の笛
「ピピッ、ピピッ」。大理石のネプチューン像から流れ落ちる水のせせらぎを切り裂くように、2、3分おきに甲高い笛の音が鳴り響く。目をやると、トレビの泉を背にコインを投げる観光客の黒山に、制服姿の警察官が分け入り、泉のへりに腰掛ける人に「はい、立ちあがって」と手を振り上げている。
ローマ市では2019年7月に条例が改正されてから、観光客は「歴史的建造物」である泉のへりの岩に座ることや、泉の水に手を入れることが禁じられている。キャスター付きスーツケースを転がすことや、上半身裸になることなど、他にも禁止事項が細かく定められ、罰金は最大400ユーロ(約4万7000円)だ。
過剰にも思える条例の背景にあるのが、都市が受け入れられる人数を超えて観光客が押し寄せるオーバーツーリズムだ。国連世界観光機関(UNWTO)の統計によると、2010年には世界で9億5000万人だった国際観光客は18年には14億人(速報値)を突破。イタリアにも国の人口を上回る6200万人が押し寄せ、都市部の家賃高騰や交通渋滞、騒音やごみ問題などがじわじわと「ふつうの生活」を脅かしている。
スペイン階段では、映画「ローマの休日」のオードリー・ヘプバーンをまねてジェラートを食べる人が増え、こぼした飲食物で石段が傷んだ。財政難の市にかわり、ローマ発祥の宝飾品ブランド・ブルガリによる150万ユーロもの支援で修復されたのが16年。飲食は禁止されたが、その後も座り込んでごみを散らかす観光客が後を絶たず、昨年の条例改正で座るのも禁止になった。ローマ市警察のブルーノ(53)は言う。「これは単なる階段ではなくて芸術作品。でも、ルールを定めて守ってもらわないと、すぐに単なる階段になってしまうからね」
■渋滞対策でGoogleマップも禁止
ローマ以外の都市でもここ数年、次々と条例ができている。
世界遺産のあるポンペイでは「柱に上って自撮りをする」のが禁止。リゾート地のサルデーニャ島では、砂浜の砂を持ち帰ると高額の罰金を科される。ベネチアでは、まわりの人に水がかかるのを防ぐために「高潮の時の早歩き」が禁止。北部のチロル地方では「車の渋滞から抜けるために地図アプリのグーグルマップを使う」のが禁止。「アプリに案内された狭い脇道に入り込んでさらなる渋滞を引き起こし、地域住民の交通の妨げになるから」だという。
住民の多くにとっては、観光客は何のメリットももたらさないばかりか、大切なものを奪う存在にもなりうる。ローマ市に住むアリアンナ・タラブ(43)はため息をついた。「最近、娘とトレビの泉に行こうとしたけど、観光客が多すぎて落ち着けずに帰って来た。ローマには、観光客の知らない素晴らしい場所も多いのに、このままでは地元の人が遺産に接する機会が持てなくなってしまう」
■利益分配の不均等さが問題
日本でも観光客数が史上最多を更新するなかで、外国人観光客のマナーを問題視するニュースはテレビやネットの定番になりつつある。
『パンクする京都 オーバーツーリズムと戦う観光都市』の著書がある龍谷大学非常勤講師(観光社会学)の中井治郎(42)は「問題は、観光客が来ることによる利益が公平に再分配されないこと」と指摘する。「京の台所」錦市場では、昔ながらの漬物や乾物が観光客目当てのアイスクリーム店などに取って代わられ、地元客の足が遠のいているという。「迷惑を被るけど利益はないという状態が、外国人への不満を高める土台になる。迷惑を感じる住民側に立った視点が欠けていた」と話す。
UNWTO上級部長のマニュエル・ブトレールも認める。「これまでは観光客数や収入を最大化させることばかりが注目されていたが、これからは観光地が住民側の福祉を守れるかがカギを握る」