「For Sale(売り出し中)」「Sold Out(売約済み)」
2004~08年まで筆者が家族で暮らしていた南アフリカの最大都市ヨハネスブルク。この年末年始、その北側に広がる高級住宅街サントン地区を、息子2人を連れて久々に訪ねた。すると、広大な邸宅の玄関先に、そんな看板が数多く立っているのが目に留まった。
少数の白人が圧倒的多数の有色人種(アフリカ系やアジア系など)を支配していたアパルトヘイト(人種隔離)政策の廃止(1991年)と民主化(94年)から、およそ四半世紀が経過した。その南アで、何が起きているのだろうか。(白戸圭一)
■国を出る白人たち
「白人が少しずつ、国を出ていっている。私たちも可能ならばどこかへ移住したいと思うけれど、なかなか難しくて決められない」
7年ぶりに再会したサントン地区に住む友人の白人夫婦が、近所で空き家や売りに出されている家が増えている背景について説明してくれた。
妻(48)が続ける。「インフラが劣化し、停電が頻発する。政治家や公務員の汚職もひどいし、国の将来に希望を感じない。さらに、大統領が白人の土地を強制収用する政策に言及し始めて以降、私の周りでも国外移住を考える人が多くなったような気がする」
南アのシリル・ラマポーザ大統領は就任から5か月後の2018年7月、白人が所有する土地を補償金なしで強制収用し、アフリカ系に再配分する政策を進める考えを表明した。19年8月には、大統領の諮問機関である土地改革・農業諮問評議会が報告書を公表し、①放棄された土地、②投機目的で所有されている土地、③所有者がいない建造物――などが収用対象であるべきとの考えを示した。
この報告書の方針に沿えば、現に人が暮らしている住宅の強制収用は想定できない。だが、与党アフリカ民族会議(ANC)の一部や、アフリカ系主体の左翼野党「経済的開放の闘志(EFF)」は「土地の国有化」など急進的な土地改革を主張しており、白人の間では土地や家屋を強制収用されることへの恐怖が広がっているようだ。
白人の「脱出」は本当に加速しているのだろうか。南ア政府が19年7月に公表した統計によると、南アの総人口は約5878万人。人種別ではアフリカ系が約4744万人(80.7%)、カラード(混血)が約518万人(8.8%)、インド系約150万人(2.6%)、白人約465万人(7.9%)となっている。白人の人口に絞ってみると、17年が約449万人、18年が約452万人だったので、僅かばかりではあるが増えている。
だが、南ア政府は人種別の国外への移住数についても統計を発表しており、それによると、国外へ移住した白人は2001年7月~06年6月が9万9574人、06年7月~11年6月が10万6787人、11年7月~16年6月が11万1346人と微増傾向だ。政府は白人の国外移住が加速するとみており、16年7月~21年6月は11万5906人が国外へ移住すると予測している。
つまり、白人人口は高齢者の寿命の延長と新生児誕生による自然増でかろうじて微増しているが、南アに住み続けることに希望を見いだせずに移住する白人も着実に増えていると考えられる。人々が自宅を売却する理由は様々であるに違いないが、国外移住を機に不動産を処分した人も、恐らくゼロではないのだろう。
■アパルトヘイトが破壊したもの
現在の南アに該当する地域への白人の本格的入植が始まったのは1652年。オランダ人のヤン・ファン・リーベックが80人の部下を率いて現在のケープタウンに当たる地域に上陸し、オランダ船のための補給基地を建設した。ケープ植民地にはオランダ人を中心にドイツ人、フランス人などが続々と入植し、白人人口が増大していった。
その後、1795年に英国がオランダからケープ植民地を奪うと英国人の入植も進み、20世紀初頭の段階で、白人の進出地域は現在の南ア領土にほぼ等しい広さに拡大した。1910年に南アフリカ連邦として独立した際には、人口の7割を占めていたアフリカ系には参政権が与えられなかった。アフリカ系の土地所有は著しく制限され、所有を認められた土地はその後、国土の14%前後で概ね固定化された。
第2次大戦後の1948年の総選挙でオランダ系住民の子孫である「アフリカーナー」を主体とする国民党が政権の座に就くと、国民を白人、カラード、インド系、アフリカ系の四つに分類して社会を運営するアパルトヘイト政策が始まった。
49年制定の雑婚禁止法で異人種間の結婚を禁じ、50年制定の集団地域法で都市部の地域を人種別に厳格に分離した。そして、53年の隔離施設居留法で公園、郵便局、電車、バス、レストラン、ホテル、街角のベンチ、教会、公衆トイレ、映画館、エレベーターなどありとあらゆる施設の人種別利用を定めた。
参政権があるのは白人のみ。アフリカ系は高等教育を受ける権利がなく、政策に反対する者は令状なしで逮捕、拘禁され、警察による拷問で死者が相次ぐ体制がつくられた。ちなみに日本人は、白人との性交渉だけが禁止されている他は「白人並み」の待遇を受けることが許された「名誉白人」とされた。
ここまで書いただけでもアパルトヘイト政策の非人道性と異様さが分かると思うが、日常生活の様々な場面でアフリカ系を差別し、白人が物質的な快適さを追求したことは、アパルトヘイト政策の狙いの一部でしかない。アフリカ系の土地保有を原則として禁じ、不毛かつ狭隘な地域に強制移住させ、最大時でも総人口の2割程度に過ぎなかった白人が国土の8割の土地を占有することで、アフリカ系社会の農業生産体系を破壊し尽くすこと。それこそが、この政策の核心的な狙いであった。
白人が到来して国土の大半を占有する前、元々この地に住んでいたアフリカ系の多くは農業や牧畜を営みながら生活していた。だが、白人の武力によって強制的に土地を奪われ、不毛な地への移住を強要されたために、伝統的な農業の継続は不可能になった。
農業が営めなくなれば、アフリカ系男性は白人が経営する鉱山の労働者、白人家庭の庭師、清掃作業員、女性の多くは白人家庭のメイドとなって賃金を得ることを強いられた。
これらの肉体労働は低賃金で、食べていくのがやっとのレベルであり、貯蓄によって次世代に再投資する余力は生まれない。つまり、アパルトヘイト政策の本質は、アフリカ系による自律的な富の蓄積を不可能にする、人種を媒介した特殊な超搾取システムだったということだ。そして、そのシステムの根幹に位置していたのが、土地の強制収奪による伝統的農業のほぼ完全なる破壊だったのである。
■農業の不在という現実
したがって、94年の全人種参加を経た民主的政権の樹立によってアパルトヘイト政策が完全に終結した後も、アフリカ系社会の困難は続くことになった。農業の不在である。写真は、筆者が家族で南アに駐在していた当時、メイドとして働いてくれたアフリカ系女性の郷里の村の光景だ。今回の旅行では、彼女の故郷を訪ねた。日本人が見れば羨ましいというほかない広い敷地の家だが、彼女の家はもちろん、周辺の住民の家々を見渡しても、何一つ農作物を育てていないのが分かる。
他のアフリカの国々の地方を歩けば、砂漠のような極度の乾燥帯でない限り、どの村の住民も多かれ少なかれ農作物を生産している。第2次産業、3次産業の就労者、食うや食わずやの失業者でさえも、庭先でトウモロコシや野菜を育てているのが一般的だ。
だが、南アのアフリカ系社会では、そうした光景を見ることが極めて少ない。一部の地域で細々と伝統的農業を続けているアフリカ系も見かけるが、他のアフリカ諸国のように国全体で農業が続いているのとは決定的に事情が異なる。南アにおける農業とは、機械化された白人農場主による大規模農園のことであって、アフリカ系によって営まれている伝統的農業ではない。
農業は、親から子へ、子から孫へと家族の中で土地を相続し、同時に知識や技術を継承しながら存続していく産業である。入社後の一定期間の研修で一通りの仕事がこなせるようになる工場労働とは異なり、長い歳月の中で経験値を上げていくしかない。
残念なことに南アでは、100年以上の長きにわたってアフリカ系の土地所有が著しく制限され、不当な扱いを受けたために、人口の圧倒的多数を占めるアフリカ系の多くが農業を忘れてしまった。
だから南アのアフリカ系住民は、アパルトヘイト廃絶から四半世紀が経過した今も賃金労働に依存せざるを得ず、その機会が不十分なために、アフリカ系だけに限ってみれば30%を超える高失業率状態に恒常的に苦しんでいるのである。そして、その根源は、伝統的農業がほぼ完全に破壊されているために、農村に大規模な雇用吸収力がないことにある。
話を冒頭に紹介したサントン地区の高級住宅街に戻そう。この地域の一軒家は広い芝生の庭の片隅にプールがあるのが「常識」で、敷地面積500坪、1000坪が「普通」だ。筆者が駐在時代に借りていた支局兼住宅も敷地面積600坪ほどあり、それでも家賃は当時の為替レート(1ランド=約18円)で25万円前後だった。
今回、久々に再会した大家の白人夫妻は、我々が借りていた家を含めて14の物件を所有し、しかもその一つ一つが数百坪から数千坪の邸宅だ。車で3時間ほど離れた地域には、シマウマなどの野生動物を放し飼いにしている広大な牧場を所有している。
2018年2月の南ア土地開発・土地改革省の発表によると、72%の土地を白人が所有する状況が続いている。南アのアフリカ系住民が強いられてきた苦難の歴史を思えば、こうした広大な土地を有している白人に向かって土地の返還を求める心情は十分に共感できる。
しかし、どれほど広大な土地を強制収用しても、アフリカ系社会が直面する大量失業の問題は自動的には解決しない。戻ってきた土地で、誰が農業を営める知識、技術、そして意思を有しているというのか。世代を超えて忘却した農業に再度取り組むことの難しさは、国民の多くが高度成長以降に農業から離れた我々日本人が一番よくイメージできるだろう。