ジュネーブ近郊の町で町議会副議長を務めるミカエル・アンデルセン(28)は、2年前に引っ越しをした。新居に入って2週間後、玄関のベルが鳴り、ドアを開けると、当時公共放送の受信料を徴収していた会社「ビラグ」の集金人が立っていた。「こんにちは。ビラグです。お名前を教えてください。受信料を払っていただきます」。自宅を探り当てて来た集金人を思い出し、アンデルセンは「まるでビラグ・ポリス」と苦笑した。
当時、受信料は年約450スイスフラン(約5万円)。その9割ほどがスイス公共放送「SRG SSR」に配分され、残りは州や地域の放送局などに割り振られていた。「ネットフリックスは金を払って見るかどうか自分で選べるが、公共放送は選択の余地がない」とアンデルセン。
スイスの人口は約840万人。人口の63%が独語圏、23%が仏語圏、伊語圏が8%、ロマンシュ語圏が0.5%で、「SRG SSR」は各言語別に放送している。独仏伊の言語圏では国境を越えて隣国の放送も見られる中、「SRG SSR」の視聴シェアは30%前後。収入の75%ほどを受信料収入に頼る一方、残りはコマーシャル収入やタイアップ番組などでまかなう。法律でラジオやウェブにコマーシャルを入れることは禁止されている。
アンデルセンは国政与党、国民党の青年部員だ。党の経済政策は自由主義志向で、自分自身その立場から受信料の徴収には批判的だ。「公共放送は、収入の4分の3が受信料収入。民放が利益を受けないのは公平ではない」と主張する。
直接民主主義の国スイスでは、国民発議や住民投票は珍しくはない。18カ月以内に10万人分の有効な署名を集めると、国民発議が可能だ。国民党青年部などの間で受信料廃止の憲法改正を求める国民発議、その名も「ノー・ビラグ」運動が起きると、アンデルセンはジュネーブ周辺のフランス語圏を中心に、街頭での署名集めに奔走した。
署名集め中、アンデルセンは有権者と対話を重ねた。受信料廃止に賛成の人からは「公共放送と民放の扱いに違いがあるのはおかしい」と公平性の点や「いい番組を作れば広告を出す企業も出てくる。民放は自助努力でやっている」とCM導入を求める声が上がった。一方、反対の人からは「受信料がないと、『SRG SSR』は生き残れない」と経営を心配したり、「受信料なしでは多言語放送が維持できない」と国の多様性が確保できるか懸念したりする声を聞いたという。
2018年3月、「ノー・ビラグ」の投票があり、反対が71.6%で受信料廃止案は否決された。「当時、国民党は国会の議席で約30%を占めていたので、有権者はもっと賛成してくれると思っていました」とアンデルセンは残念がる。
一方、「SSR SRG」執行役員のバケル・バルデン(44)は、受信料廃止の国民発議は「通常の民主主義の過程」と評した上で、71.6%の反対多数で否決されたことは、「公共放送に対する強い前向きな意思表示がなされ、自分たちのサービスが国民に評価されているためだ」とみる。「SSR SRG」はデジタル化の課題に対処するため自己変革する必要があり、重要な歳出削減計画を予定しているという。総額1億スイスフラン(約120億円)の歳出を削減し、うち2000万スイスフラン(約24億円)はコンテンツなどに再投資する。
バルデンは、スイスは直接民主主義の国で、国民が公平に情報を受けることは重要だとする。自ら民間の放送局に勤めていた経験を踏まえ、商業放送はエンターテインメントが中心となり、ニュースに投資するのは難しいという。「民主主義を健全に維持するため、よい情報を得るため、受信料に依拠した歳入システムは欠くことができません」
「SSR SRG」の歳出の40%が情報系の番組に充てられており、受信料収入があるからこそ金を投入できているという。「スイスのような狭い国でメディアが資金調達するのは難しい。全ての地域のため、公共放送を独立した存在にしておく必要があるのです」