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大学で教えて実感した、「ニュースを読む学生と読まない学生」の知的格差

アフリカの地図を片手に 更新日: 公開日:

■「安倍首相は再登板」知らない学生

私は30年以上前の1989年4月に入学し、93年3月に卒業した。昔のことなのではっきり覚えてはいないのだが、当時の立命館大学国際関係学部の偏差値は、たしか60台の後半から70くらいだったように思う。この30年間で、母校の偏差値はどうなったのか?

そこで、2019年版の教育産業各社の偏差値ランキングを眺めてみた。すると、模擬試験を実施している会社によって偏差値は微妙に異なるが、30年前と比べて大きく下落したようには見えない。少なくとも、大学受験という意味においては、入学してくる若者の偏差値レベルが大きく低下したということではなさそうである。

だが、教壇に立つ中で、思わず「え?」と声を上げてしまったことはある。ある講義で、安倍政権が時々スキャンダルに見舞われながらも一定の支持率を維持し続けている理由について考察した時のこと。私は「安倍晋三首相が1度目の政権での失敗を教訓にしながら政権運営していることも、支持率維持の理由の一つではないか」という趣旨の話をした。

その時、私は何人かの学生の顔が「教授が何を言っているのか分からない」と訴えかけているのを察知し、念のために「安倍首相は2006年から2007年に1度首相を務めています。現政権は2回目の登板であることを知っていますか?」と学生たちに尋ねてみた。

私の勘は的中した。何人かの学生は、安倍首相が再登板である事実を知らなかったのである。それを知らなければ、現政権が支持率を維持し続けている理由について考察する講義そのものが成立しない。

またある時、私は外交政策と世論の関係についての講義を試みた。問題を考察するための事例として取り上げたのは、小泉純一郎首相の北朝鮮訪問によって拉致被害者が帰国した際の日本国内の世論であった。だが、この時も、想定外の事態が起きた。小泉純一郎という首相が存在した事実そのものを知らない学生がいたのである。

もし、このレベルの学生に講義を理解してもらうのならば、小泉氏という人物の存在を説き、同氏が北朝鮮を訪問した最初にして唯一の日本の首相である事実を説き、拉致被害者の存在を説明し――と話を続けざるを得ない。

お互いに署名した日朝平壌宣言を交換し握手する小泉純一郎首相(左)と北朝鮮の金正日総書記=2002年9月17日、平壌・百花園迎賓館で(代表撮影)

こうなると、もはや「外交政策と世論の関係の考察」どころではない。当初こちらが計画した水準の講義に到達するまでに、何時間必要なのか見当もつかない。この時はさすがに、冒頭のベテラン教授の言葉を思い出し、確かに30年前、自分がこの学部の学生だった時にはあり得なかったことが起きていると思わざるを得なかった。

■時事ニュースに触れる人と触れない人、広がる格差

このようなエピソードを並べていくと、「小泉政権や最初の安倍政権が存在した当時、今の大学生はまだ小学生だったから、知らなくても仕方ないではないか」という擁護の声が出てくるかもしれない。

しかし、安倍首相が再登板である事実や、小泉進次郎環境相の父親が純一郎氏である事実など、彼らが高校生・大学生になって以降発行された新聞や雑誌にいくらでも書かれ、テレビでもさんざん報道されている。日本政治について小学生時代には知らなかった彼らも、大学生になった今はいくらでも情報を集めることが可能である。

その証拠に、安倍首相の再登板や小泉氏の北朝鮮訪問について、正確に認識している学生も多数存在している。本稿の冒頭で「学生の学力の低下が著しい」というベテラン教授の言葉を紹介したが、正確には「同じ大学の同じ学部の学生の間で、知識・情報格差が昔とは比べ物にならないほど拡大している」というのが実情だろう。

無知な学生の中には、しばしば「私は受験で世界史を選択したので、日本のことは知らない」などと受験分野を持ち出して「無知の理由」を説明する人がいる。

だが、これは学校教育に起因する問題なのだろうか。無知な学生の出現は、偏差値重視の「詰め込み教育」が悪いとか、その反対の「ゆとり教育」の弊害だとか、あるいは親が子供に物事をきちんと教えていないとか、そういう問題ではないのではないか。

私が「これは学校教育の問題ではない」と考えるようになったのは、学生たちの日常生活におけるニュースの情報源と知識・情報格差の関係を実感するようになってからである。

大学で学生たちに「日常生活で時事ニュースを見る媒体は何か」と尋ねると、90%以上の学生がスマートフォン(スマホ)と答える。今の大学生・大学院生は、誰も紙の新聞を読んでいないといっても過言ではない。「実家から通学しているので、両親が購読している紙の新聞を時々、開いてみることがある」という学生がいる程度である。また、一人暮らしの学生の中には、自室にテレビを置いていない人もいるし、テレビがあっても「ほとんど見ない」という学生もいる。

そこで次に、スマホで時事ニュースをチェックする際、どのようなサイトを見ることが多いかを尋ねてみる。ここで学生はいくつかのタイプに分かれる。

第1は、新聞社やNHKのウェブサイトを見ることが最も多いと答える学生たち。この学生たちは紙の新聞を開いたことはなくても、新聞社などマスメディアが配信したニュースに日常的に触れている。

第2は、フェイスブックやツイッターなどSNS経由でニュースを得ていると答える学生たち。このタイプの中には、SNS経由でマスメディア発の時事ニュースに日常的に接している学生と、時事ニュースにはほとんど関心を示さない学生がいる。

第3はヤフー、スマートニュース、NAVERなどのサイト経由でニュースを見ている学生たち。このタイプの学生の中にも、新聞やテレビから転送されてきたニュースをよく読んでいる学生と、エンターテインメントなど自分の関心があること以外はほとんど見ない学生がいる。そして最後に、朝から晩までスマホを見てはいるけれど、そもそも時事ニュースをほとんど見る習慣のない学生たちが存在する。

このように学生を大まかにグループ化してみると、1~3のいずれのタイプの学生であっても、マスメディアを発信源とする時事ニュースを見る習慣のある学生の知識水準が高いのは当然であり、その反対にマスメディア発の時事ニュースを見ない学生の知識水準が低いことは疑いようがない。

■「知のセーフティーネットが崩壊する」危機感

私が学生だった30年前はもちろんのこと、少し前までの時事ニュースの情報源は、極論すれば新聞とテレビのみであり、日本の国民は朝日新聞から産経新聞までのいずれかの全国紙の社説の中に、自分の意見に近い主張を何とか見つけ出すことができた。さらに、テレビは新聞にも増して政治色の違いが目立たないので、「どのテレビも一緒」と揶揄されるほど、各局が同じ内容のニュースを放送していた。

こうした日本のマスメディアは「横並び」「没個性」などとさんざん批判され、現に多くの問題を抱えていた。皆が同じ事件に関心を抱き、皆が似たような意見を言い、皆が一つの流行に飛びつく同質性は紛れもなく日本社会の欠点であり、日本のマスメディアは同質社会日本の象徴であったと言えるだろう。

しかし、横並びのマスメディアが幅を利かせていた当時の日本は、今から思えば、情報資源が全ての国民に均質的に分配される「知識・情報平等社会」でもあったともいえる。朝日新聞と産経新聞の社説の論調は昔から大きく異なっていたが、時事ニュースを淡々と伝えるという点はどの新聞社も同じであり、朝日の読者が田中角栄の存在を知っているが、産経の読者が田中角栄を知らないなどという事態が起こるはずはなかった。

国民はメディアについての選択肢を持たなかった代わりに、子供は親が購読している紙の新聞を子供のころから拾い読みし、親が見ているテレビニュースが半ば自動的に視界に入ることで、自らの幼少期や誕生以前の出来事についても知識・情報を獲得していた。インターネットの発達以前のマスメディアは、例えて言えば、これさえ食べていれば栄養バランスだけは保証できる定食のようなものだったといえるかもしれない。それは、多くの国民が知的な面で脱落していくことを防ぐ「知のセーフティーネット」「情報のプラットフォーム」だったと言えるだろう。

インターネット技術の発達によって誰もが自由に情報発信し、誰もが自由に情報を取捨選択できるこの時代に、「マスメディアの効用」を説くなど時代に逆行した言説に思われるかもしれない。

しかし、ネットの発達によって、極論すれば「個人の自由に基づき、見たい情報だけ見れば済む情報環境」が誕生した結果、同じ大学の同じ学部の中ですら、良質の情報を自発的に獲得しながら能力を伸ばし続ける若者と、抽象的思考を発達させるために最低限必要な知識を持たず、何をどうしてよいか分からない若者との格差が加速度的に拡大している。

その光景を見ていると「知のセーフティーネット」「情報のプラットフォーム」の崩壊を痛感せざるを得ない。「知識・情報平等社会」から「知識・情報格差社会」へと変容していくことのリスクに目を向けるべきだと思う。