裁判官のタミー・ケンプ(57)は、信仰心のあつい黒人女性だ。
もう25年以上も、米テキサス州ダラスの同じ教会に通い、牧師の補佐を務めている。自分の裁判官室には、いつも聖書がある。ノートパソコンの上に置き、仕事で開ける前にその日の祈りを忘れないようにしている。
そして、贖罪(しょくざい)を信じている。法廷では、刑期を務めながら更生するように被告人を励ましている。
そんな被告人の一人に2019年10月初め、今後の助言を与え、抱きしめてほしいと頼まれた。武器を持たない隣人を射殺した白人女性の元警察官(訳注=31歳)。殺人罪で有罪の評決を受け、ケンプが禁錮10年の量刑を言い渡した後のことだった。
そのとき、ケンプが思い浮かべたのは、直前の日曜日に教会であった説教だった。
新約聖書の「見失った羊のたとえ」。自分の群れにはまだ99匹の羊がいながら、いなくなった1匹を捜す羊飼いの話だ。
「牧師さまは『この一匹(訳注=罪人の象徴とされる)を群れに引き戻すには、愛と思いやりの心を示さねばならない』と説いた。それだけではない。私の仕事の務めは、正義を実践し、慈悲を愛し、謙虚に歩むことだと神さまがいってくださっていることも考えた」とケンプは、当時の心境を振り返る。「抱きしめてほしいというこの願いを、断るすべがあっただろうか」
ケンプは聖書を与え、抱きしめた。
しかし、思いやりの心をこうして示したことに、裁判の後で激しい論争が起きた。――人間らしさを示した類いまれな行為で、真に必要とされることだ。――とんでもない。(訳注=政教分離に反し)違憲の疑いがある。被告人が黒人だったら、同じように留意されただろうかと疑う声もあった。
もともとこの事件は、(訳注=人種差別問題がからんだ)感情的な要素を伴い、異例の注目を集めた。その延長線の最後に、ケンプのハグがあった。
被告人アンバー・R・ガイガーは(訳注=18年9月6日夜)、勤務を終えてアパートに帰宅した。すると、自室に侵入した黒人がいると思って発砲した。ところが、現場はガイガーの部屋ではなく(訳注=1階上の部屋で)、撃たれたこの部屋の住民ボッサム・シェム・ジーンは死亡した。
地元の活動家たちは、公正な判決をもたらす訴訟指揮を裁判官に求めた。そして、多様な人種で構成された陪審は、評決で殺人罪の成立を認めた。(訳注=白人の警察官が黒人を死なせた最近の裁判では)珍しい事例だった。
量刑の言い渡しが終わってから5日後に、ケンプは公の場で初めて自分の考えを説明した。抱きしめるときにガイガーが白人であることは意識しなかったし、聖書は自分から進んで渡したわけではないと語った。
後悔の様子はなかった。むしろ、すぐに抱きしめる決心をしなかったことを悔いていた。「2度も彼女に頼まれたことには、いささか恥ずかしい思いがする」
黒い法服に真珠のネックレスをしたケンプは、裁判が始まると、すぐに有名人になった。ネットで中継され、全米が注視した。
この事件では口外が許されないようなことを検察側がテレビの取材に語っていたことを知ったときの憤慨した表情は、ネットの画像で広く共有された。目をうるませるという、裁判官の席ではめったに見られないはずの表情もときには見せた。
しかし、最も注目されたのは、正式な裁判が終わってから法廷で繰り広げられた光景だった。
殺人罪での有罪評決を受け(訳注=量刑が翌日に告げられた後で)、亡くなったジーンの弟が証言台からケンプに訴えた。怒りを吐露するためではなかった。法廷で被告人を抱きしめてもよいか、許しを求めたのだった。
「お願いです」。さらに、もう一度、「お願いです」。
証言台から被告席に行く許しを、ケンプは「ただ拒むことができなかった」。
民主党員のケンプは2015年1月、検察官から裁判官になった。この事件に臨む姿勢は、他のどの事件とも変わりはなかった。
毎日、早朝から裁判の準備にとりかかった。まだ暗いうちに始めたこともあった。陪審員が法廷での長い一日をきちんと過ごせるよう、コーヒーを用意し、ギリシャ風ヨーグルトや清涼飲料水のゲータレードも確保した。
目撃者の証言は、手書きでリーガルパッドにメモをとった。陪審員の視線が一方向だけに集まらないよう、法廷内を定期的に見回して目配りを怠らないようにした。
法廷のビデオカメラは、後ろから前方を映していた。だから、ガイガーは証言台に立たない限り、いつも後ろ姿だった。
裁判官席の視点は違った。裁判が進むにつれ、被告人の態度が変わっていくのを見ることができた。
最初は感情を示さず、ケンプの視線を避けた。しかし、刑罰をめぐる審理が始まると、変わった。ケンプがガイガーを見つめると、「私のことを見つめ返すようになった」。有罪の評決が下ると、別の女性のようになっていた。
裁判の最後に、陪審員は任を解かれた。ケンプは、亡くなったジーンの両親に弔いの言葉を述べるため、裁判官席から下りた。家族の一員を失った遺族がいるときは、いつもそうしていた。「ボッサムという惜しい息子さんを亡くされた」と声をかけた。
それから、被告席の前で立ち止まった。ガイガーを励ますためだった。
「ガイガーさん。被害者の弟ブラント・ジーンはあなたのことを許した」と切り出し、「今度は、罪を犯した自分を許し、出所後に実りある暮らしができるようにしてほしい」と続けた。
その後のやりとりは、数十年の法律家歴と5年近い裁判官としての経験を顧みても、参考になるようなことすら思い出せないものだった。
「自分には、生きる意味がまだあるのだろうか」と問われた。
「意味があるようにすることはできる」と答えた。
「でも、どこから始めればよいのかも分からないし、聖書も持っていない」
こういわれて、裁判官室にある自分の聖書が浮かんだ。
「ちょっと待って。持ってきてあげる」
聖書を手に戻ってくると、2人で新約聖書の「ヨハネによる福音書」の3章16節を読んだ。贖罪(しょくざい)についての一節だ。
すると、予期せぬ頼みに不意をつかれた。抱きしめてほしいというのだった。
思わず躊躇(ちゅうちょ)した。被告席にいた人を抱きしめたことは、これまで何度もあった。ただし、それは保護観察の期間や、薬物中毒の治療をきちんと終えたときのことだった。殺人で有罪となったばかりで、これから刑務所に入る人を抱きしめたことはなかった。
「確かに、ジーンさんを殺すという恐ろしい行為を犯してしまった。でも、一つのことをやったからといって、それが人間のすべてではない」
傷ついている人を慰めるとはどういうことなのかを考えながら、こう思った。数分前には、ジーンの両親と抱擁を交わしたばかりだった。結局、手を差し伸べて、ガイガーを抱きしめた。
批判の声は、すぐにあがった。社会的公正さを求める人々は、有色人種の被告人なら、もっと軽い罪でもそんな思いやりを示されることはないと憤った。法廷に宗教は無用だという非難も出た。
「明らかに一線を越えている」と政教分離を求める米非営利団体「Freedom From Religion Foundation(宗教からの自由・財団)」の法律家アンドリュー・L・サイデルは断言する。今回の件については、すでに裁判官の適格性を審査するテキサス州の公的機関に苦情を申し立てている。聖書をひもといたケンプの判断は、政教分離の原則を示した米憲法修正第1条に反するとの理由からだ。
たとえ、ガイガーが欲したとしても、法廷に聖書を持ち込むのは「とんでもないことだ」とサイデルは話す。ケンプの行為は、「明らかに精神的に弱い状態にある人に、自分の宗教を広めようとした」とその目には映る。
そんなことはない。被害者にも、被告人にも、同じように「尊厳と敬意をもって」接するようにしているだけだとケンプは反論する。その上で、刑事司法全般の改革が必要だと説く。とくに、被告人がいつかは出所するケースでの課題は大きいと強調する。
「刑事司法制度の目的は、まず罰を与え、犯罪に走ることを思いとどまらせて未然に防止することにある」とケンプはいう。
しかし、それだけであってはならない。
「罪を犯した者が、私たちの社会に復帰するときに、入所時よりもよき人間になっていることはありうる。それは、私の願いでもある」(抄訳)
(Sarah Mervosh)©2019 The New York Times
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