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ラグビーW杯、南ア優勝で考えた「我々のスポーツ哲学が問われている」

アフリカの地図を片手に
優勝し歓喜する南アフリカの選手たち=11月2日、横浜国際総合競技場、江口和貴撮影

■南アラグビーを支える白人社会

とはいえ、南ア社会におけるラグビー人気を支えているのが白人社会である事実は今も変わらない。黒人社会で最も人気のあるスポーツは、ラグビーではなくサッカーである。

南アの総人口は約5778万人(2018年の世界銀行推計)だが、白人はそのうちの約550万人と1割に満たない。国籍を代表チーム入りの資格条件としないラグビーの特性のため、W杯の代表チームには南ア人以外の選手も加わることが可能だが、優れた選手を輩出し続ける南アラグビーの社会的基盤は、東京都の人口の半分にも満たない白人社会にある。

世界最強と言われつつ準決勝で散ったオールブラックスを擁するニュージーランドもまた、2019年3月時点の総人口がわずか495万人の人口小国である。W杯は男性の大会なので、南ア白人社会も、ニュージーランドも、単純計算すると、わずか二百数十万程度の男性人口の中から世界トップレベルの選手を輩出し続けていることになる。

ラグビーW杯の優勝パレードに集まったファン=11月7日、南アフリカ・プレトリア、ロイター

スポーツ研究の専門家ではない私は、どのようなシステムを構築すれば、少ない母集団の中から世界トップレベルの選手を次々と輩出できるのかに詳しいわけではない。しかし、想像できることはある。

東西冷戦時代の東側陣営のような強権国家では、政府が特定の競技に資金や技術を集中投入し、国家の威信をかけて少数のエリート選手を育成していた。こうした国家主導のスポーツ政策は、しばしば選手の心身の健康を顧みない勝利至上主義に根差していた。

だが、ニュージーランドや南アのような民主主義国家では、そうした国の威信をかけたエリート選手の育成はできない。つまるところ、国民がその競技を楽しむ文化を育んでいくしかないだろう。とりわけ重要なのは、その競技の観客数を維持することだけでなく、競技人口を安定的に維持していくことである。

多数の国民が幼少期から競技者としてその競技を楽しめる環境が存在しなければ、少数のエリート選手の集中的育成だけで世界トップレベルの成績を残し続けることは困難であるに違いない。

ラグビーW杯で応援のために来日したニュージーランドのアマチュア指導者に、同国の少年ラグビーについて聞く機会があったが、印象的なのは「子どもがラグビーを好きになることが一番大切」という言葉だった。同国では、子どもたちが自分の体力や素質に応じてチームを選択し、ラグビーを楽しめるように設計されているというのだ。

■「野球ファン」を産む米国の少年野球

競技人口の維持という問題を考えるに当たって、私には思い出深い体験がある。2011年から3年間、新聞社のワシントン特派員として駐在した米国で、当時小学生だった長男と幼稚園児だった次男が、地元バージニア州フェアファックス郡の少年野球チームでプレーしたことである。南ア白人社会やニュージーランドとは異なり、米国は言わずと知れた人口大国だが、その少年野球の在り方は、少子化時代の日本のスポーツの在り方を考えるうえで示唆に富むものであった。

少年野球チームへの入団を希望する子どもは、毎年2月になると、郡の少年野球連盟が開催する「トライアウト」と称する野球の実技試験を受けなければならない。野球の本場米国だけあって、毎年100人を超える子どもが同郡のトライアウトを受験する。トライアウトでは、打撃、守備、走塁のそれぞれの分野で、子ども一人一人に点数がつけられる。当然ながら、上手な子もいれば下手な子もいる。中にはほとんどボールを捕球できない子や、グローブのはめ方が分からない子もいる。

だが、トライアウトの目的は、優れた子どもだけに入団を認めることではない。連盟の試験官は、点数に応じて連盟内の十数チームに子どもを均等に振り分け、基本的に全てのチームの実力がほぼ等しくなるようにチーム編成するのである。

ここでは、日本のように子どもが希望するチームに入ることは原則として認められない。つまり、この連盟には強豪チームも弱小チームも存在しない。一つのチームの中に、将来有望な子どもから、日本のチームでは万年補欠が約束されるような子どもまでが一緒に在籍し、仲良くプレーするのだ。

練習や試合は日曜日の午前中に行われることが多い。シーズンは3月から6月くらいまでの春と、9月から11月くらいまでの秋の年2季。30度を超える真夏の炎天下で汗と泥にまみれてプレーするようなことはあり得ないし、凍えるような寒さの中でプレーすることもあり得ない。したがって、夏休みや冬休みの大半が練習と試合ばかりで、家族旅行もままならないといった事態は起こらない。

試合では、ひとりの子どもが一試合の間に、3~4カ所の守備位置を経験させられる。我が家の長男も内野から外野までほぼすべての守備位置を経験した。監督は「チームを背負って立つエース投手」や「不動の4番打者」を意図的に作らないようにしている。

どんなに下手な子どもでも、必ず一試合に一度は打席に立ち、守備につかなければならない。長男の所属したチームには、キャッチボールがようやくできるかどうかというほど下手な少年がいたが、その子も打席に立つし、守備にもつく。当然ながら三振、エラーのオンパレードになるが、子どもたちは全員でその子をもり立てるよう監督、コーチから指導される。三振してもエラーしても叱られることはない。相手チームへのやじは厳禁で、違反すれば連盟から厳しく注意される。

当時、私は記者だったこともあり、こうした米国の少年野球の在り方に関心を抱き、何人かの連盟関係者に話を聞いた。そこで返ってきたのは、米国社会で少年野球がどのような役割を果たすべきかということに関する明確な哲学であった。

「小学生時代は、子どもが野球を好きになることに全力を尽くすべき時期。勝利へのこだわりは、長期的に見れば野球嫌いの人間を増やしてしまう。野球を愛する人間が大勢いなければ、メジャーリーグは成り立たない」

「高校を卒業するくらいまでは、そもそも自分がスポーツに向いているのか、向いているならば、どのようなスポーツに向いているのかといったことを試すべき。子ども時代の試合で勝つことに意味があるとは思えない」

米国から帰国した私は、自宅を構えた東京都内でいくつかの少年野球チームをそっとのぞいてみた。

「何やっているんだ。いまのはセカンドだろ!」

「おまえがそこでカバーにはいらなくて、どうすんだよ!」

小学生の子どもたちに向かって怒声をはりあげ続ける監督やコーチが少なくない。40年前、野球少年だった私が経験した「真夏の炎天下で怒鳴られ、罵倒され、叱責され続ける少年野球」と変わらない光景が目立ち、2人の息子は「野球は好きだけど、こういうチームではやりたくない」と入団しなかった。

現在、私が教壇に立っている大学にも、高校まで野球をやっていたが、大学に来てやめたという男子学生が少なからずいるが、彼らもまた「野球という競技自体は好きだが、日本の野球界はどうしようもなく古臭くて、ちょっと距離を置きたくなった」と異口同音に話す。

■問われるスポーツ哲学

日本でも勝利至上主義を見直そうという動きが広がりつつある。元巨人の桑田真澄さんは各地で野球教室を開き、育成の大切さを訴えている=9月22日、青森県、伊東大治撮影

自分が目にした光景や学生の話だけを根拠に日本の少年野球を批判するのは公平さを欠くかもしれないが、2019年8月に出版されたノンフィクション作家、中島大輔さんの著書『野球消滅』(新潮社)には、国際的に見れば異様というほかない長時間練習や勝利至上主義にどっぷり漬かった日本の少年野球の実態が詳しく書かれている。

同書の帯には、こうある。「古くさい体質、はびこる根性論、不勉強な指導者、いがみ合うプロとアマ」。筆者の中島さんは、2007年から2016年の間、日本の小中学生の野球人口が66万3560人から48万9648人へと26.2%も減少したのに対し、同期間の小中学生のサッカー人口が逆に51万8808人から54万9962人に増加したと指摘している。野球少年は実に少子化の6倍のペースで減少しており、中島さんは「このままではプロ野球の興行すら危うい時代が来る」と警鐘を鳴らしている。

日本の人口が南ア白人社会やニュージーランドの水準にまで減少することはないが、少子高齢化は猛烈な速度で進展しており、予見可能な将来において日本の人口が増加に転じることは想定できない。

本稿では野球に多くの字数を割いたが、競技人口の減少という危機に直面するスポーツは、野球だけではないだろう。子どもの数が限られたこれからの日本社会で、いかにして様々な競技の人口を維持していくのか。スポーツ振興予算の金額や強化選手育成システムの構築だけではない、我々の哲学が問われていると思う。