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小説「白鯨」で思い出す 捕鯨で栄えた町、かつてアメリカにもあった

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19世紀に捕鯨基地として栄えた、米マサチューセッツ州ニューベッドフォード。街中には、かつての捕鯨をモチーフにした像が立つ

「北の海にクジラを追う」#4 メルヴィル「白鯨」の地で 日本が商業捕鯨を再開しました。31年ぶりだそうです。海外からは批判もあります。なぜクジラだと、こうも騒がれるのか。鯨肉はあまり食べたことがありませんが、クジラ捕りの最前線を知るため、ノルウェーの捕鯨船に同乗しました。2週間の船上生活、取材の合間に読んだのはメルヴィルの「白鯨」。そう、かつてアメリカにも、捕鯨で栄えた町がありました。(初見翔=写真も、文中敬称略)

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カトー号の船内で、クジラを見つけるまでの長い待ちの時間を使い、私はメルヴィルの小説「白鯨」を読んだ。19世紀半ば、米国を出発した捕鯨船が太平洋で巨大なマッコウクジラと死闘を繰り広げる。170年ほど前の描写は、いままさに乗っている捕鯨船に通じるものがあり、引き込まれた。

帰国して1カ月半後、「白鯨」ゆかりの地を訪ねた。まず行ったのは、アメリカ東海岸のマサチューセッツ州ニューベッドフォード。ボストンから南へバスに揺られて2時間半の港町だ。ホタテ貝やロブスターなど、全米有数の漁獲高を誇り、米捕鯨船に助けられたジョン万次郎が上陸した地としても知られる。

ニューベッドフォードの街並み。捕鯨産業が栄えた当時を再現するため、石畳が敷かれ、れんがの建物が並ぶ=米マサチューセッツ州

19世紀に捕鯨基地として栄え、「白鯨」の主人公イシュメールが出航前に立ち寄った。「モービィ・ディック」(「白鯨」の英名)や「ホエーラー」(クジラ捕り)など名を冠した飲食店が並ぶ町の中心部に、捕鯨博物館がある。

かつてアメリカは世界の海でクジラを捕っていた。博物館の学芸員のマイケル・ダイヤー(54)は「経済の側面を理解することが大切だ」と話す。当時の目的は鯨油だ。マッコウクジラなどの大型種を狙い、海上で皮をはぎ、船内の釜で煮詰めて油を抽出した。航海は数年にわたった。鯨油はろうそくやランプ、産業用として重宝されたが、石油の普及とともに捕鯨業は衰退した。ニューベッドフォードは鯨油の運搬のために発達した交通網を生かし、綿紡績の町に変わっていったという。

ニューベッドフォード捕鯨博物館に展示されているマッコウクジラの骨格標本=米マサチューセッツ州

「白鯨」では、二等航海士のスタッブがマッコウクジラの肉をステーキで食べる場面がある。メルヴィルによるとこのころ、クジラを食べるのはスタッブのように「偏見から自由な人間」にかぎられていたらしい。彼はまた「陸の人間が鯨を食するのを極端に嫌悪するのは(中略)殺したばかりの海の生物を食べること、しかもその油で火をともして食べることに由来するのだ」(岩波文庫、八木敏雄訳)とも述べている。

博物館の貴重な所蔵品のひとつが、航海の日誌だ。案内された一室には、壁一面に古ぼけた冊子。「2400冊ある。1冊に何回かの航海が記録されているから、全部で5000回分くらいにはなるだろう」とマイケル。開くと、あちこちにクジラの形をしたスタンプがある。捕獲すると押したそうだ。これらをもとにした研究によると、1750年から1900年の間に約40万頭のクジラを捕獲したという。マイケルは「船にエンジンがついて機械化された20世紀には、世界中で300万頭が捕獲された。それ以前の我々のやり方は完全に人力だった」と付け加えた。

米捕鯨船の航海の日誌

日本に関する展示も充実している。和歌山県太地町の古式捕鯨に使われた色鮮やかな勢子船(せこぶね)の模型や、ジョン万次郎に関する説明。「鯨はこんなに役にたつ」と書かれた1963年の日本水産のポスターもある。日本の捕鯨に批判的な展示は見当たらず、船との衝突や漁網、海洋汚染からクジラを守る必要性を訴える内容が目立つ。

翌朝、港から高速船で2時間ほどのナンタケット島に向かった。砂浜が美しいこの島にも捕鯨博物館がある。鯨油を使う19世紀のろうそく工場を一部そのまま転用した建物を訪ねると、学芸員ダニエル・エリアス(62)が迎えてくれた。

ナンタケット島の捕鯨博物館=米マサチューセッツ州

ナンタケットは、主人公イシュメールが乗る捕鯨船ピークオッド号が出航した島だ。メルヴィルは「海はナンターケットびとのものであり、皇帝が帝国を領有するように、ナンターケットびとが海を領有している」(同)とたたえた。だがダニエルによると、自身も捕鯨船の乗組員だったメルヴィルが実際にこの地を訪ねたのは、白鯨が出版された後だったという。

ダニエルによると、一時は世界で消費される鯨油の7割を米国が生産し、その5割がナンタケットで作られていた。だが、遠浅のため大型化した船が入港できず、捕鯨産業の中心をニューベッドフォードに譲ったのだという。

高速船から見たナンタケット島。遠浅の砂浜が美しい=米マサチューセッツ州

ダニエルは捕鯨がもたらした多様性も強調した。「捕鯨船には35~40人が乗ったが、数年間の航海を終えて帰港すると、半分が代わっていた。途中で死んだ人もいれば、なんらかの理由で船を下りた人もいた。そうすると、各地で船員を補充する。ここにはアフリカやアジアの人がたくさんいた」

最後に、ニューベッドフォードから西へ約100キロのコネティカット州ミスティックを訪れた。この小さな町のミスティック・シーポート博物館には、「白鯨」と同時代に活躍した帆船の捕鯨船チャールズ・W・モーガン号が当時の姿のまま保存されている。全長34メートル。1841年にニューベッドフォードで建造され、1921年までに37回の航海をした。米国で現存する唯一の捕鯨帆船であり、最も古い商船でもあるという。2013年に修繕され、翌14年には90年ぶりの航海も果たした。

捕鯨船チャールズ・W・モーガン号

約7ヘクタールの敷地に面したミスティック川に船はあった。乗船すると、「白鯨」の世界が目に浮かぶ。探鯨は、マストのてっぺんからの目視。カトー号と同じというわけだ。発見すると、船に数隻備えた5~6人乗りのボートで追いかけ、手で銛を打ち込んだ。船内は、30人以上が生活していたというには狭い。船長室は広いが、一般船員の部屋は2段ベッドが並び、20人ほどが寝泊まりしていた。窓はなく、外気もあまり入ってこなかったという。(つづく)