理由のひとつは、IWCが機能不全に陥ったこと、あるいはIWCの性格が変わってしまったことだ。
IWCの設置を定めた国際捕鯨取締条約は1948年に発効した。前文には「鯨族の適当な保存を図って捕鯨産業の秩序のある発展を可能にする」とある。20世紀には、世界で300万頭のクジラが捕獲されたとされる。IWCは、乱獲からクジラを守り、産業として持続させるという捕鯨国の思惑から出発した。
だが、かつて鯨油を目的に盛んにクジラを捕っていた欧米諸国は、石油や植物油などが安価に出回るようになると、捕鯨から次々に撤退した。一方で、日本や旧ソ連が捕獲頭数を少なく申告しているといった問題もとりざたされた。
1960年代ごろになると、欧米を中心に「クジラを絶滅から保護しよう」という世論が生まれ、70年代にはIWCでも商業捕鯨の中止を求める声が出始めた。米国を中心に、捕鯨を行わない国にIWC加盟を促す多数派工作も進んだ。
82年のIWC総会では、商業目的の捕鯨の中断(モラトリアム)が採択された。ただIWCには異議申し立ての制度があり、所定の手続きに従って異議を申し立てれば、決定に拘束されない。このため、日本などとともに異議を申し立てたノルウェーは、93年に商業捕鯨を再開した。やはり捕鯨国のアイスランドは92年にIWCを脱退したが、さまざまな交渉の後、2002年にモラトリアムを留保したまま再加盟が認められた。このため両国はIWCに加盟したまま商業捕鯨を続けている。
一方、日本に対しては、米国が「異議申し立てを撤回しなければ、米国200カイリ内での日本漁船への漁業割り当てをゼロにする」と圧力をかけた。これを受けて、日本は異議申し立てを撤回し、87年に南極海の商業捕鯨を中止した。にもかかわらず米国は88年、200カイリ内で日本漁船を締め出した。
商業捕鯨モラトリアムをきっかけに、日本は87年、南極海での調査捕鯨を始めた。モラトリアムでは、同時に「鯨資源に与える影響についての包括的な評価」と「ゼロ以外の捕獲枠の設定」について、遅くとも90年までに検討すると決めたからだ。
調査捕鯨は、国際捕鯨取締条約第8条で認められた権利でもある。8条は「捕獲したクジラは、実行可能な限り加工する」とも定めており、余すところなく利用・販売するのは義務だ。だが、捕獲頭数が多いことや殺さずにできる調査が増えたこともあり、「事実上の商業捕鯨だ」という批判が高まった。
調査捕鯨の結果はIWC科学委員会に報告される。IWCの資源量推計値によると、2004年の南半球のクロミンククジラは51万5000頭。水産庁によると、若年齢の個体が多く、資源状況は健全だという。
日本はこれまで、沿岸でのミンククジラの捕獲枠設定などをIWCに提案してきたが、否決され続けた。妥協をめざす動きもあった。1997年のIWC総会では、反捕鯨国アイルランドの議長が「調査捕鯨を含む公海での捕鯨を全面的に禁止する代わりに、沿岸での商業捕鯨の再開を一部認める」という提案をしたが、豪州や英国などが反対した。
水産庁によると、IWC加盟88カ国のうち、「鯨類の持続的な利用を支持する国」が40カ国。投票国の4分の3の賛成が必要なモラトリアムの撤回は、事実上不可能となっている。IWCは「鯨資源の保護」と「捕鯨産業の発展」が両輪のはずだったが、保護の側に大きく傾いているのが現状だ。
■視点 「日本は一頭も殺すな」キティー・ブロック
ヒューメイン・ソサエティー・インターナショナル(HSI)代表
商業捕鯨には反対だ。市場のためにクジラを殺し、肉や骨を利用する行為そのものが必要ない。非人道的でもある。銛で撃ち、海を引きずり、即死させられない。(米アラスカ州のイヌイットなど)先住民生存捕鯨については、本当に生存のために必要なら反対しないが、文化のために、というのは認められない。
調査捕鯨にも反対してきた。日本は「調査」といいながら、その実態は商業目的だった。その意味で、日本が調査捕鯨をやめて商業捕鯨というようになったのは良いことだ。透明性が高まる。
とはいえ、やはり日本はクジラを一頭も殺すべきではない。この現代に、日本にクジラを殺す理由や必然性はない。クジラは繁殖にも時間がかかる。近年は気候変動などの影響も受けている。クジラは守るべき存在だ。
牛や豚とどこがちがうのかといわれるが、クジラは何頭生息しているかという実態がつかめない。人道的に殺す方法もない。日本政府は厳格な捕獲枠を算出しているというが、算定の基となるデータが問題だ。100パーセント完璧にクジラを数えることはできない。データが正しくなければ、導き出される数字も正しくない。それに私たちは牛や豚も食べるのを減らすべきだと訴えている。
かつては米国も盛んに捕鯨をしていた。ピーク時には、おそらく世界で最も多く捕っていただろう。だからこそ、クジラを守る責任がある。IWCの商業捕鯨モラトリアムを米国が先導したことを誇りに思っている。
■視点 批判よりも「お辞儀」を パトリック・ラマージ
国際動物福祉基金(IFAW)海洋保全ディレクター
米国を含め捕鯨反対に回った多くの国々は、歴史を忘れてしまっているのではないか。欧州や豪州、ニュージーランドなどはかつて積極的に捕鯨を行っていたのに、手のひらを返したように日本やノルウェーなどを批判している。
日本に捕鯨をやめてもらうには、一方的に批判するのではなく、もっと「お辞儀」をすべきだと考えている。日本独自の決断を尊重すべきだ。その意味で、日本のIWC脱退と商業捕鯨再開の決断は称賛に値する。日本の捕鯨の「終わりの始まり」になるのではないか。
日本人の食の好みは変わってきており、特に若い世代はクジラを食べる人が少ない。日本の文化には、もちろん食文化を含めて深い敬意を抱いている。ただ、それを理由に捕鯨を正当化することはあってはならない。
調査捕鯨は国際捕鯨取締条約第8条で認められているが、それは極めて少数のクジラに限定することを念頭に置いている。かつては解体しなければわからない事柄もあったかもしれないが、現在は殺さずに集められるデータが多い。日本の調査捕鯨は、商業捕鯨の隠れみのにすぎなかった。
21世紀に捕鯨は不適切であり、不必要だ。公海でクジラを殺すのは残酷きわまりない。生息数を激減させるという動物保護の観点に加え、クジラを管理しつつ捕鯨を続けるのは非常に難しい。
■取材して考えた 初見翔(朝日新聞記者)
平成生まれの私は、ほとんどクジラを食べたことがなかったし、鯨肉がなくても困らないと思っていた。取材を終えたいま、その考えは揺らいでいる。
確かに日常生活で鯨肉を見かけることはまずないし、鯨料理が好きな同世代の友人も見当たらない。国際社会からの圧力がなくても、誰も食べない日が来るのかもしれない。
一方で、今回の旅で食べたクジラは、どれも心底おいしかった。保存や調理の技術も向上し、ジビエ肉や熟成肉が市民権を得たいま、このおいしさに多くの人が気づいたら……。そんな未来もあり得るように思う。「自分は食べないから、禁止されても困らない」という考えを突き詰めれば、どこに行っても同じものを食べるだけの貧しい食文化に行き着く気がする。
捕鯨は残酷だ──。ワシントンでインタビューした動物保護団体の幹部は口をそろえる。かつては米国も世界中に鯨油を求めた。当時はそれが「正義」だったのだろう。価値観は、時の流れとともに変わる。いま、それを互いに闘わせても、あまり意味はない。
私もカトー号に乗り、巨大な動物が解体され血が流れるのを見て、心が痛まなかったわけではない。それでも、まだ温かい肉を口に含んだときに体を巡ったのは「命を食べている」という実感だった。
過剰な捕獲で一部の種を絶滅の危機に追いやった歴史を反省し、繰り返さない仕組みを維持することは大前提だ。だが私たちは、命を食べなければ生きていけない。そう認めるからこそ、資源の保護に真剣に取り組めるということもあると思った。