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40年前まで物々交換のカンボジア、キャッシュレスに踏み出した事情

World Now
携帯電話の普及率が150%にもなるカンボジアでは、送金や支払いで利用するペイアプリも普及。電子マネー「WING」は多くの国民が利用している(画像を一部修正しています)

30階以上の高層ビルが乱立し、新たな建設工事があちこちで進んでいた。多くが中国を始めとする外国資本の高層マンションだ。首都プノンペン。巨大なショッピングモールも各所で目立つ。スターバックスコーヒーに入ると、メニューの値段は全て米ドル表示だった。注文をして5ドル札を差し出すと、店員は細かいおつりを現地通貨リエルで返してきた。開いたレジ機の中には米ドル札が束ねられており、その周りにリエル札が煩雑に置かれていた。

プノンペンにあるスターバックスコーヒーの店内。メニューの価格表示は米ドルのみだった

プノンペンを最後に訪れたのは2009年。低層の古めかしい住宅や商店しかなかった首都に、初めて32階建ての高層タワーが建った時だった。久々に見たプノンペンはまるで別の都市のように変貌していた。この10年でカンボジアは急激な発展を遂げた。7%前後の経済成長を続け、インフレも安定している。こんな姿からは想像しがたいが、実はカンボジアでは、わずか40年余り前には物々交換が行われており、通貨が存在していなかった。

背の低い伝統的な造りの商店や住宅を見下ろすように高層ビルが立ち並ぶプノンペン

きっかけは1975年、「暗黒の時代」と言われるポル・ポト政権の誕生だ。約170万人もの大虐殺で知られる同政権は、極端な原始共産主義を掲げた。「資本主義の象徴だ」として、通貨リエルを含む全貨幣の使用を禁止し、銀行の建物も破壊した。人々の生活は、「原始の時代」のような物々交換に戻った。「コメがほしいならタバコと交換します」「野菜があるので魚と交換しませんか」。国民は持っているものを交換しあうことで、この時代を生き延びようとした。当時、日本に逃れていた経済学者のメイ・カリヤン(66)は、人づてにそう聞いたという。まさに通貨の歴史が振り出しに戻ってしまった瞬間だった。

経済学者のメイ・カリヤン。国際経験が豊かで、フン・セン政権に対して経済や金融政策などの助言をしてきた。滑らかな日本語を話す

79年に同政権が崩壊し、内戦が勃発。リエルは復活したが、内戦下の混乱で知らない国民が多かった。代わりに使われたのは金(ゴールド)だったが、誰もが持てるはずもなく、物々交換は続いた。国境地域では、利便性から隣国のタイのバーツやラオスのキープ、ベトナムのドンが使われた。91年に内戦が終わると、民主的な選挙に向けた国連による暫定統治が始まる。「突然3万人がやってきた。米ドルの使用が急速に広まった」とメイ。それから約30年、復興期から成長期へと順調に移行したカンボジアだが、今も国民生活では主に米ドルが多用されており、現地通貨との事実上の二重貨幣制となっている。

スターバックスコーヒーでお茶をしていた女性の財布の中には、米ドルと現地通貨リエルが入っていた

国家最高経済評議会の相談役としてカンボジア政府の経済や金融政策に携わってきたメイだが、「リエルの流通量は現金の中で2割未満」だと苦笑する。大虐殺や内戦の影響で高齢者が少なく、30歳未満が全体の半数以上を占めるため、同国の平均年齢は24歳(2017年統計)と若い。「多くの国民が生まれた時には、米ドルの使用が当たり前になっていた。国にとって現地通貨は象徴だが、無理に脱米ドルを図ると、国民生活にも国の経済にも多大な悪影響を及ぼすほど浸透している」とメイ。「そのため、政府が米ドルの使用を禁止し、リエルの使用を強制するのは難しい」と強調した。

夜の市場で果物を購入した女性が支払いに使ったのは米ドルだった

国民はどう思っているのだろうか。夜の買い物客でにぎわう伝統的な市場を訪れた。果物や野菜、調理された食べ物などを売る屋台が軒を連ねる市場での支払いは、やはり米ドルが目立った。ただ、リエルを使う買い物客もかなりいた。3ドルを払って、リエルでおつりを受け取った30代女性は「ほとんどの値段が米ドル表示なので、米ドルを使っているだけ。リエルも持っているのは、光熱費などの支払いに必要だから」。別の30代男性は「多くの人が米ドルで物価を考える習慣がある。ただ、それがリエルでいくらなのかも分かるので、社会全体がリエル使用となるなら、それでも全く構わない」。

中央銀行のカンボジア国立銀行(NBC)統括局長チア・セレイが説明する。

「通常は国の経済や現地通貨への信頼がないからドル化が進むが、カンボジアは例外だ。国民への調査では自国通貨が誇りだと答える人が多いのに、歴史的な経緯によりドル使用の習慣から抜け出せないでいる」

ただ、市場の買い物に不便はなくても、米ドルが流通したままでは、政府や中央銀行は財政や金融で有効な政策を打ち出せない。マネーロンダリングなどの規制や監視も強めるのも難しい。だからこそ、チアは強調する。

「経済成長が続く中、中央銀行が国民のためにできることは増えている。ただ、私たちが刷るお金を使ってくれなければ、それすらもできない。問題が起きた時に責任をもって国民を助けられるよう、私たちのお金を使ってほしい」

米ドル(USD)と現地通貨リエル(KHR)の両方で料金が表示されたレシート。脱米ドルへの国民意識を促進させるため、カンボジア政府は両通貨での価格を併記するよう商店などに求めている

公務員の給料払いや国民の光熱費の支払いをリエルに限定したり、商業施設での値段表記をリエルにするよう促したりして、まずは国民の意識の変化を図ろうとしている。一方で、急激な脱ドル政策は自国経済にとって危険だという認識もNBCにはあり、「時間をかけて、緩やかにリエルへのシフトをしていくしかない」(チア)という状況だ。

それでもNBCは将来のキャッシュレス社会を念頭に野心的な取り組みを始めた。デジタル通貨「バコン」を使ったブロックチェーン技術による決済システムの開始だ。多くの仮想通貨と違い、NBCが発行、取引も監視する。NBCによると、同国の銀行口座の保有率は3割以下だが、携帯電話普及率は150%。スマホなどでの送金や決済は当たり前になっていることもあり、リエルより普及しやすいと期待。「中央銀行がブロックチェーン技術を使ってデジタル通貨を発行するのは世界で初めて」としている。

カンボジアで普及している電子マネー「WING」は送金にも使われる。プノンペン市内には多くの送金窓口があった

もっとも過度な期待は感じられない。「先進国はうまく機能している現行システムから新技術になかなかかじを切れない。うまくいっているとは言えないカンボジアだから挑戦できる。失敗したら元に戻るだけ」。チアは冷静な表情でそう語った。