1945年4月に銃殺されたはずの独裁者ムッソリーニが現代のイタリアに蘇る――。映画はそんな設定で始まる。かつてエチオピア侵攻を指揮した立場として、アフリカ系の人たちが大勢いるローマの様子に「エチオピアに侵略されたのか?」と驚くムッソリーニ(マッシモ・ポポリツィオ、58)。一方、21世紀の人々は、まさか本人とは思わず、当時の軍服姿のそっくりさんだと思って笑い、自撮りをせがんで盛り上がる。売れない映像作家カナレッティ(フランク・マターノ、30)は、彼を舞台回しにしたドキュメンタリーの製作を思い立つ。巧みな演説によりネット動画で人気者になったムッソリーニは、テレビ番組でも高視聴率をたたき出してゆく。
このあらすじを聞いて、ドイツのヒット映画『帰ってきたヒトラー』(2015年)を思い起こす人も多いだろう(シネマニア・リポート第1回でヒトラーを演じた俳優オリヴァー・マスッチにインタビュー)。『帰ってきたムッソリーニ』はその原作小説をもとに、舞台をイタリアに置き換えて映画化。ミニエーロ監督は「原作を読んで、映画化しようと興味を引かれた。ドイツ版の映画ができる前だ」と話す。大筋は原作に忠実ながら、ヒトラーとのキャラや末路などの違いが、筋立ての違いに随所に反映されている。
ドイツ版同様、ムッソリーニがローマの街を車で回る場面はほぼドキュメンタリーとして撮影した。つまり路上の一般の人たちの反応はフィクションではない。「ムッソリーニが街に出たら人々が笑い、おもしろがって一緒に写真を撮る様子はショッキングだった。映画に取り込まなかった動画もある。そうした映像が意味するものが、今作の意味そのものだ」とミニエーロ監督は言った。ドイツもイタリアもほぼ同様に、ヒトラーやムッソリーニのそっくりさんを街に登場させると一般の人たちがただおもしろがってしまうという、悲しい現実があるということだ。
「ムッソリーニはヒトラーと違うし、何よりイタリア人の話し方はドイツ人と非常に違う。キャラクターも、ムッソリーニはヒトラーより弱いし、ヒトラーほど劇的でもない。ただ、映画を作り終えてショックに感じたのは、ムッソリーニは私たちの一部だということだ。彼は悪魔ではない。悪魔的ではあるが、人間だ」
ムッソリーニは当初は社会主義者だったが、第1次大戦への従軍などを経て、国家主義者に転向。大戦後の経済や社会への不安を背景に、巧みな演説力でファシスト党を率いて1922年に首相となり、ローマ帝国の復活を掲げて大衆の心をつかんだ。その点、トランプ米大統領の「米国を再び偉大に(Make America Great Again)」を思わせるレトリックだ。ムッソリーニの手法は後に政権を握るヒトラーに影響を与え、右手をまっすぐ上げるローマ式敬礼はナチス式敬礼へと受け継がれている。
第2次大戦は、日独伊などの枢軸国と、米英ソなどの連合国との戦いだった。ただ、同じ枢軸国ながら、日本、ドイツ、イタリアは、敗戦後の道筋がそれぞれ違う。日本とドイツが戦争責任を連合国によって問われたのに対し、イタリアの場合、国内のレジスタンス運動のもと、ムッソリーニはイタリア人に銃殺された。
負の歴史への向き合い方にも違いを生んだ。ドイツではナチスのシンボルは教育目的など以外では違法。ヒトラーの最後の防空壕も一部破壊された。だが、イタリアではムッソリーニの別荘や防空壕、墓などが観光地になっており、ネオファシストらの巡礼や献花が絶えない。地元報道によると、出身地プレダッピオの市長が、経済効果を狙ってムッソリーニの墓を観光名所として整備する計画を進めているという。また、ムッソリーニの孫娘アレッサンドラは極右政治家だ。歴史修正主義者が以前にも増してはびこる日本も、耳が痛い話だ。
「イタリアでは、ムッソリーニは悪かったが良いこともした、と言う人たちがいる。ムッソリーニは戦争突入とユダヤ人差別という2つの問題を起こしたが、それ以外は良いこともたくさんした、いいこともあった、という風に。だが、それは違う。ムッソリーニについて、時に無知だったりする。ムッソリーニは多くの罪を犯し、たくさんの問題を起こしてきたのに、人々は忘れている」
イタリアの歴史教育で、ムッソリーニはどれぐらい教えられているのだろうか。そう聞くと、ミニエーロ監督は「私の世代はファシズムや第2次大戦についてさほど教わっていない。若い世代もあまり知らない」と話した。
今作がイタリアで公開されたのは2018年2月1日。その2日後、中部マチェラータで20代の男性がアフリカ系移民6人を銃撃して重軽傷を負わせる事件が起きた。男性は、直近のイタリア人女性殺害事件でナイジェリア出身の難民男性が逮捕されたことを受けての「報復」だったと供述、犯行時はイタリア国旗を肩にかけ、ローマ式敬礼をしていたという。報道によると、このヘイト犯罪に極右政党「フォルツァ・ヌオバ(新しい力)」は喝采を送り、弁護団の提供も申し出たという。このフォルツァ・ヌオバはムッソリーニの孫娘アレッサンドラと一時連携し、欧州議会で議席を獲得したこともある。公開直後だっただけに、「映画が事件と関連づけて議論された」(ミニエーロ監督)そうだ。
「歴史が繰り返されるとまでは思わないが、今の私たちは不寛容や人種差別主義、ファシズムに向かいつつある。今の経済状況はムッソリーニが権力を掌握した当時と似ていて、低所得者層や中間層は当時と同じ問題を抱えている。税負担や他の問題よりも移民について問題視する」。ミニエーロ監督はそう語り、「ファシズムに独裁者は必要ない。強制収容所のようなものを持たなくても、アフリカからの移民・難民に似たような問題を起こしている」と警鐘を鳴らした。
だからこそ、「イタリア人がファシズムについてどう考えているか、この映画で示したかった。ファシズムがどうやってイタリアにやって来たか見せたかった」とミニエーロ監督。「この映画で人々はムッソリーニを笑い、ムッソリーニと仲良くなったりしている。ムッソリーニがおもしろい人物で、演説もうまかったからだ。イタリア人は愉快な人たちで、滑稽な支配者を選びやすい。この映画は反ファシズムを明確にうたっていないと言う人もいるが、それは違う。観客は最終的に、(人々がムッソリーニを歓迎する様子を)恥じ入るだろう」
イタリアの人は今も、ムッソリーニのような指導者をどこかで欲していたりするのだろうか。「ムッソリーニのような指導者を欲しているかというと、それはないと思うが、強い指導者は欲しているだろう。だからベルルスコーニやレンツィのような首相が登場した。今は副首相となったサルヴィーニだ」。サルヴィーニは連立与党の一角をも占めた右派政党「同盟」の党首で、反欧州連合(EU)、反移民を掲げて支持を集めている。
「イタリアの問題は、ソーシャルメディアやテレビ報道にもある。こうした場で政治は、指導者がいかに民意を得られるかというアプローチではかられる。でもイタリアは欧州で大きな問題を抱える国のひとつ。経済面などで解決策を見いだすには、ポピュリスト的にならず、支持の得られにくい行動をも起こせる指導者を持てるかどうかにかかっている」
さて、第2次大戦の指導者がこの世に蘇ったら……?という映画はこれでドイツ、イタリアとそろった。日本版も作るべきではないか、という声はネットで上がっている。そう言うと、イタリアが戦後、ファシスト清算の一環で王制を廃止した経緯もあってのことか、ミニエーロ監督はこう言った。「日本のことはよくわからないが、1点不思議に思うのは、ヒトラーやムッソリーニは敗戦とともに消えたものの、日本の天皇制は続いている。米国が維持させたわけだが、いずれにせよドイツやイタリアほどの変化を経ていないように思う。それについて、みなさんはどう思っているのだろうか?それが私からの問いかけだ」