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再開発進むハーレム、有名人も移り住む 街の変遷を見続けた日本人住民

ニューヨーク:エスニック・モザイクの街を歩く
ハーレムのメインストリートにある黒人音楽の殿堂アポロシアターと、再開発により建設中の高層ビル=堂本かおる撮影

1964年の夏、当時19歳だったチャールズ・テイラーさんはハーレムで起こった暴動に自ら飛び込んでしまった。若さゆえの好奇心だったが、警棒を持った騎馬警官の群れに恐れをなし、命からがら逃げ出したと言う。

テイラーさんはニューヨーク、マンハッタンの北部に位置する黒人街ハーレムの生まれだが、当時は隣の区であるブロンクスに住んでおり、毎週ハーレムにやってきては友人たちと遊んでいた。この日、友人が「何か起こっている、見に行こう」と言い出した。今のように情報が瞬時に伝わるSNSなど無い時代、友人もまさか暴動が起こっているとは知る由もなかった。

友人宅の周辺に変化はなかったが、目抜き通り125丁目に近づくにつれ、大量の衣料品やランプなど明らかに商店からの略奪品と分かる品を抱え、猛烈な勢いで走り去る人々とすれ違った。やがて車のウィンドウが割られる音が聞こえ始めた。スーツを着、アタッシェケースを持った3人の白人男性が怯えきった様子で逃げるように走っていた。

テイラーさんと友人は「白人だ!」と面白半分に追いかけたが、やがて見失った。その後、暴動の深刻さに気付き、尋常ではない形相の騎馬警官に「殺されるかもしれない」と恐れ慄いたテイラーさんと友人は、必死の思いでその場を抜け出した。 

チャールズ・テイラーさん=堂本かおる撮影

その夜、ブロンクスの自宅に戻ったテイラーさんは、ニュースで暴動の原因を知った。

高校の夏季補習に通っていた15歳の少年が学校の向かいにあるアパートの前にたむろしていたところ、アパートの管理人と揉めたという。

管理人はホースで少年に水をかけ、「汚いニガーめ!きれいに洗ってやる!」と叫んだとされている。騒ぎを聞きつけた非番の警官が銃を抜き、少年を射殺してしまった。殺された黒人少年ジミーは、なんと、テイラーさんの隣のアパートに住み、テイラーさんが弟のように可愛がっていた幼馴染だった。

警官と管理人はどちらも白人だった。長年にわたる白人からの差別と抑圧に耐えかねていたハーレムの黒人たちは怒りを爆発させたのだった。最初に少年の通っていた高校の生徒たちが騒ぎ、それはあっという間にハーレム全体に広がり、暴動となった。後に「1964年のハーレム暴動」と呼ばれることとなったこの事件は7日間続き、465名が逮捕されている。負傷者は100名を超え、死者も1名出た。 

1964年のハーレム暴動

■ハーレムの歴史

もともと白人地区だったハーレムは、19世紀後半から20世紀前半に南部諸州から大量の黒人が移り住み、アメリカ有数の黒人街となった。南部では奴隷解放後も激しい人種差別と極度の貧困があり、人々は都会に新天地を求めたのだった。

南部の田舎からの人々は大都会ニューヨークの忙しなさに目を白黒させたが、次世代の子供たちはチャキチャキのハーレムっ子として育った。いわば都会のシャレ者であり、ハーレムはジャズをはじめとする黒人文化の発祥地となった。

とはいえ北部にも人種差別は浸透しており、ハーレムは陽気で洗練された黒人文化と、差別・貧困・抑圧といった光と陰が表裏一体に存在する街となった。そのため、何か引き金となる出来事が起こるたびに暴動となった。1935年は大不況、1943年とテイラーさんが体験した1964年には白人から黒人への暴行、そして1968年にはマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の暗殺により暴動が起きている。

それでも1960年代までのハーレムは、苦しいながらも自足した黒人コミュニティだったと言われている。1970年代に入るとベトナム戦争の影響もあり、それまでとは異なる影が見え始め、1980年代にはクラックと呼ばれる粗悪な麻薬が爆発的に流行した。

クラックが、街と人々を完全な破滅に追いやった。いったん中毒になると日がなクラックに耽り、次のクラックを買うために武装強盗すら厭わなくなる。過剰摂取で死ぬ者も大量に出た。中毒者から生まれた子供は胎内感染による障害があり、クラック・ベイビーと呼ばれた。運良く健康に生まれた子供も親が育児放棄して里子に出され、さらには親が死亡して孤児となった。今も「ハーレムは怖い」と言われるのは、この時代に拡散された凄惨なイメージが根強く残っているためだ。

しかし、クラックの大流行はいつしか終わり、1990年代後半に再開発が始まっている。ちょうどその時期にハーレムに移り住んだ筆者は、今なお続く再開発を逐一目の当たりにしたことになる。

ハーレムに越した当時は近所に銀行がなく、驚いたことを覚えている。見知らぬローカル銀行はあったが、チェイス、シティバンク、バンク・オブ・アメリカなど、マンハッタンの他の地区にはそれこそ石を投げれば当たるほどあった大手銀行は見当たらなかった。住人の「クオリティ・オブ・ライフ」(生活のあるべき質)は、完全にないがしろにされていたのだった。 

そんなハーレムに新築マンションが林立し始めた。分譲価格がミッドタウンに比べると手頃、かつタイムズスクエアから地下鉄でわずか15分程度と通勤の便もよいため、中流白人の流入が始まった。

新住人を対象に、それまでのハーレムにはなかった全米チェーン店が次々と開店した。中でもハーレム再開発の象徴と謳われたのが、1998年にいち早くオープンしたスターバックスだった。当時、米国内にすでに2,000軒以上のスターバックスがあり、日本ですら1996年に第一号店が銀座に開店していた。しかし、ゲトー(貧しい黒人地区)と呼ばれていた時代のハーレムにスターバックスのような中流層を対象とした店は無く、NBAの元スター選手、マジック・ジョンソンがフランチャイズ・オーナーとして開店したスターバックスは大きな話題となった。

■再開発進む現在

再開発が進むにつれ、米国史上初の黒人大統領となったバラク・オバマの功績のひとつである「黒人プロフェッショナルの雇用増加」がハーレムとリンクした。

オバマの立候補時、大手メディアは黒人有権者の動向を伝えるために黒人ジャーナリストや政治コメンテーターを雇用した。オバマ大統領自身もホワイトハウスの職員に優秀なマイノリティを抜擢した。そうした人々が今、高級住宅が増え、住人のクオリティ・オブ・ライフも向上し、犯罪は減ったハーレムに暮らしている。

CNNアンカーマンのドン・レモン、ホワイトハウス職員からCNNに移ったヴァン・ジョーンズなどだ。ピューリッツアー賞受賞の国民的詩人、マヤ・アンジェルーも晩年をハーレムのブラウンストーンと呼ばれる建築様式の邸宅で過ごした。

ハーレムの露店で売られているオバマグッズ=堂本かおる撮影

とはいえ、黒人と白人の平均所得格差は依然として大きく開いている。黒人中流層も増えたものの、昔と同様に貧困にあえぐ人は多い。ニューヨーク・ヤンキース在籍時のイチロー選手が暮らした超高級高層マンションは、黒人リーダーの名を冠したマルコムX大通りに聳え立つ。そこから目と鼻の先に、キング牧師の名を付された低所得者用の公団アパートが延々と続く。そのどちらにも属さない中間所得層の黒人たちは、ハーレムを出て行かざるを得なくなっている。

ハーレムは今、大きな変化の渦中にある。先は見通せない。だが、ハーレムで生まれ、今、再びハーレムに暮らすテイラーさんは「この街を出て行くつもりはない」と語った。

■新連載「ニューヨーク:エスニック・モザイクの街を歩く」は月1回お届けします。次回はクイーンズ区にあるチャイナタウンを訪ねます。