■シカゴからメキシコへ家族3代かけ、南下する米国企業
メキシコを今年3月に訪れた。首都メキシコ市から高速道路を北に2時間ほど走ると、人口約90万人の都市ケレタロに着いた。歴史のある中心部には、「メキシコの桜」ともいわれる紫色のハカランダの花が咲き誇っていた。
高速道路沿いの小さな工場では、自動車部品向けの金型を作る機械がうなりをあげていた。中小企業が集まったショッピングモールのような建物は、真新しいグレーやオレンジのおしゃれな外装で覆われており、ベンチャー企業のオフィスを思わせる。
「3年前は月5万ドル(約550万円)ほどだった売り上げが、22万ドルを超えた。今年は30万ドルに持っていきたい」。キーツ・デ・メヒコの米国人社長ブラッド・キーツ(34)は、満足げに話した。白いシャツのボタンを大きく開け、赤いズボンをはいている。金型工場というより、IT企業の社長といった雰囲気だ。
キーツ社は1950年代、ブラッドの祖父がシカゴ近郊で創業した。NAFTAが発効する前の1994年、ブラッドのおじのマットが、メキシコ国境にあるテキサス州エルパソに子会社を設立。ブラッドは2016年に、ケレタロのこの拠点を立ち上げた。従業員は当初の数人から27人にまで拡大。始めは赤字続きだったが、この2カ月で利益が出始めたという。この家族経営の金型メーカーは、家族3代、70年かけてメキシコまで進出した。
米国の自動車などの大手企業は、人件費の安いメキシコに生産拠点を移し、NAFTAで認められる「ゼロ関税」で米国に輸出をすることで恩恵を得てきた。大手企業が南に移るのに合わせて、キーツのような下請けメーカーも吸い寄せられるように「南下」している。中米などから米国をめざして「北上」する移民たちとは、正反対の動きだ。
「貿易問題の不透明感のせいで、17、18年半ばごろは動きが鈍った。大手の顧客からは『方向性がみえるまで、拡大計画を止める』と言われた」。ブラッドはそう振り返る。「ようやく最近になって、成長モードに戻ったようだ」
トランプ米大統領は就任前から、「メキシコが雇用を奪っている」と批判。就任後もNAFTAからの離脱を脅しに使い、協定の見直しを求めた。先行きの不透明感を背景に、外国からケレタロ州への投資は2017年、前年より4%減った。だが昨年、米国、メキシコ、カナダがNAFTAに代わる「米・メキシコ・カナダ協定(USMCA)」に署名。メキシコに漂っていた不透明感も和らいだ。
■中国企業の進出も
「この数カ月で、多くの中国企業から我々の州に投資をしたいという提案があった」。ケレタロ州開発局長のマルコ・デル・プレテは、そう明かした。「今後、中国企業がメキシコに拠点を構えるトレンドが続くだろう」
昨年から本格化した米中の貿易摩擦は、すでに1年近く続いている。テクノロジーの覇権争いの様相も呈した状況は長期化が予想されるなか、メキシコを米国市場への「迂回路」として活用しようという中国企業が出てきている。
紙コップやストローなどのメーカーで、米ナスダック市場にも上場する中国企業フーリン・グローバル(富岭环球)は昨年12月、メキシコ北部のモントレーに同国で初めとなる工場を建設すると発表した。グイラン・ジャン会長は声明で「米中の貿易摩擦は、我々の米国市場向けの輸出事業に不確実性をもたらしている。メキシコ工場は魅力的な恩恵を与えてくれる」とコメントした。
実際、米国では中国からの輸入が減る一方、メキシコの存在感が増している。今年1~3月でみると、米国の中国からの輸入額は前年より約14%減ったが、メキシコからの輸入額は5%増えている。3月には、米国の最大の輸入先が、中国でなくメキシコに入れ替わった。英フィナンシャル・タイムズ紙によると、メキシコが中国を抜くのは初めてだという。
デル・プレテは、新たなNAFTAについても楽観的だった。
「新NAFTAのプラスマイナスを考えると、間違いなく影響はプラスだ」。デル・プレテはそう話す。「欧州やアジアのメーカーは、(新しいNAFTAの)関税ゼロになる条件が達成できていないところも多い。最近も、ある日本のプラスチック部品メーカーから、工場の規模を倍増させたいという確約を得た」という。
新たなNAFTAの協定では、メキシコから米国に関税ゼロで自動車を輸出するためには、NAFTA3カ国でつくられた部品の割合を増やさなければならなくなった。いまの協定では、北米産の部品を使う割合を62.5%以上としているが、新しい協定では75%に引き上げられた。北米以外から多くの部品を輸入して製品をつくる日本などの自動車メーカーは、より多くの北米産の部品を使う必要がある。
■日本企業にも影響
こうした状況で、日本の自動車業界も対応を迫られている。
ケレタロから西に車で20分ほど高速道路を走ると、右手に真新しい巨大な建物が見えてきた。トヨタが建設中の新しい工場だ。2019年の操業開始を目指し、トラックなど作業車がひっきりなしに出入りしていた。トヨタはこの工場でトラックを年10万台規模でつくる予定だが、新NAFTAの基準を満たせないと25%の高い関税を払う必要があり、対応が迫られる。
トヨタのメキシコの新工場は、トランプ大統領就任前の2015年に発表されていた。だが、新工場の操業開始にあわせ、下請けの日系企業の進出も広がっている。日本企業のメキシコ進出の支援事業を手がける「メキシコ出前講座」の鯨岡繁は「新NAFTAの合意まで様子を見ていた企業の進出が動き出した。新協定では現地化が要求されることから、このまま日本に残っていては仕事がなくなると感じている部品メーカーからの問い合わせも増えている」と話す。
メキシコでは、日産やホンダ、マツダなどが工場を持ち、米国向けの輸出拠点としている。ここで作る自動車の部品は、日本などアジアから輸入しているものも多い。新NAFTAが発効すれば、関税ゼロでメキシコから米国に輸出するためには、今まで以上に北米産の部品の割合を増やす必要が出てくる。
ケレタロの隣町にある、自動車のボディーのプレスを手がける日系企業「東プレ」の工場。2014年に生産を開始したこの工場では、3回目の拡張工事を進めていた。今年6月末に工事を終え、20年4月からの稼働をめざす。
「我々がコントロールできる話ではない。自動車メーカーがどういう対応を取るかで風向きが変わってくる」。工場長の邊見一哉は、新NAFTAの影響についてそう話した。「メキシコで車を作らなくなることはなく、今より減るとは思わない。ただ、何をどう作るかは、自動車メーカーさんにとってものすごい頭が痛いところだろう」という。
■くすぶる懸念
「霧」が晴れてきたメキシコだが、先行きには不透明感も漂っていた。
「コインをトスして、宙を舞っている状況だ。まだどこに落ちるかわからない」。地元の自動車部品メーカー約80社でつくる団体のレナート・ビラセニョールはそう話す。彼らは、新NAFTAに合わせた供給網の組み直しなどの相談に乗っているという。
新たなNAFTAには、「ゼロ関税」の対象となるためには、時給16ドル以上の高い賃金の労働者による生産の割合を高める内容も含まれた。要するに、「米国でもっとモノを作れ」という内容だ。ケレタロ周辺の労働者の賃金は、時給2ドルにも満たないとされる。とても太刀打ちできる水準ではない。
ケレタロの業界が注視していたのが、新しいNAFTAがいつ米国議会で承認され、本当に現実のものになるかどうかだ。米議会は下院を野党・民主党が過半数を占める「ねじれ議会」。民主党はさらに米国に有利な条項を求める声もあり、見通しはついていない。
昨年のケレタロ州への外国投資は4%ほど改善したものの、トランプ当選前の2015年の水準を下回っている。地元で工場関連の不動産を手がけるアドバンス社のディレクター、フーゴ・マンドハノは「自動車分野では、すでにここにいる企業の投資は増えているが、外から入ってくる動きは鈍っている」と話す。
そんなさなかで飛び出したのが、新たな「トランプ砲」だった。トランプ政権は5月30日、メキシコからのすべての輸入品に関税をかける方針を発表した。メキシコが中米諸国などからの不法移民の取り締まりを強化しない限り、6月10日から関税を5%ずつ段階引き上げ、10月1日には25%にまで引き上げるという。高関税が始まればメキシコも報復措置に踏み切る構えで、新NAFTAの議会承認も遠のく公算が大きい。
■メキシコに頼る米国、変わらぬ現実
米ウィルソンセンターの試算によると、メキシコとの貿易によって約500万人の米国の雇用が支えられている。新NAFTAに胸を張るトランプだが、米国企業がメキシコに頼る現実は変わっていない。
冒頭のキーツ社でフロアマネジャーを務める、ダニエル・コルテス(24)は「この辺りで同じような仕事でもらえる給料は月2万ペソ(約11万円)くらい。それより少しいい給料をもらっている」という。「仕事には満足している」というが、「生活のためにはもう少し給料をもらいたい」という。
メキシコを目の敵にするトランプをどう思うか?そう聞くと、コルテスは冷静な語り口で答えた。
「大半のアメリカ人は、営業職や弁護士などのオフィスワークをしており、我々のような工場で仕事をしている人は少ない。国境に壁を作るのは米国の自由だが、ではそういう仕事は誰がやるのというのか」