皆さんは不便な旅をしたことがあるだろうか?
もちろん、そんな旅なんてしたくはないだろうし、求めてもいないであろう。
しかし世の中には、不便な旅というものは存在し、そしてその不便な旅にこそ、現代に生きる我々にとって重要な要素と可能性が含まれている。
昭和生まれの我々の時代は、旅、というもの自体がとても不便なものであった。
まず情報がない。
当時はとにかく現地に行ってから情報を得ようとするのが普通だった。「地球の歩き方」というガイドブックが出だしたのも我々の時代からである。もう少し前の世代や時代ならば、不便どころか、旅をするということは、大袈裟かもしれないが命をかけなくてはいけないくらいの一大イベントであり、簡単にできることではなかったのではなかろうか。
考えてみると、自分にとって最初の不便な旅、
というのは小学校の登下校だったような気がする。
私は長崎の平戸という場所で育ち、毎日4キロ近い道のりを通学していたのだが、それはなかなか辛く、しかし楽しいものであった。
朝、真っ暗な時間帯に家を出るのだが、家の裏山の獣道を登るのが最初の旅の行程であった。数分で道に出るのだが、学校までの道のほとんどが砂利道や獣道で1時間近くかけて小学校を目指すのである。
休みの時以外、毎日その道を通るので、なにがどこにあるのかもわかっている。しかし、雨の日や風の日、季節によってその場所は姿を変え、小さい自分にとっては毎日が冒険のような日々であった。
その道のりで私たちはいろいろなことを学んだ。
牛や猪などの自分より大きな動物に出会っても背中を見せて逃げてはいけないことや、海などで溺れている仲間を助けようと前から行くと、しがみつかれて自分が逆に溺れるなどなど。
今考えると、普通に死に直結するような大事なことを自然を通していろいろと学んでいた。
当時は自然の困難を通して育ったと言っても過言ではない。
海外でもそうだ。
何度も通ったネパールの旅も困難が大きかった。
簡単に行けると言われたトレッキングコースは季節外れの大雨により、途中大規模な土砂崩れなどにより全然先に進めなかったり、霧と雨で前が全く見えないため普通のトレッキングコースがものすごく険しいジャングルに変貌したりしていて、雨の中をヒルに追い回されながらただただ歩き続けるという過酷で命がけの修行になってしまった。
あの時は一度もヒマラヤの山々を見なかったのではないだろうか。
しかし、あの身体と五感を全て使って歩いた日々を私は今も忘れはしない。
ロサンゼルスの友人を訪ねたアメリカの旅も酷かった。
私はイルカと泳ぎたくてアメリカに渡ったのに、雪があるイエローストーンに向かうと言うのでシアトルで友人と喧嘩別れをした。
一人っきりになりイルカと泳ぐためだけにオアフ島に来たのは良いのだけど、時間はすでに夜の10時を過ぎていて、勢いだけで飛んできた自分にはどうすることもできず途方に暮れていたら、空港のスタッフが声をかけてくれて彼の家に世話になることになった。インド人の彼は家族を紹介してくれ、美味しいカレーを食べさせてくれた。ハワイの最初の飯の味はオリジナルインドカレーである。
次の日、彼が出勤前にイルカの情報をインフォメーションオフィスで聞いてくれ、ハワイ島で泳げるという情報を教えてくれた。
オアフ島からハワイ島に渡ったは良いものの、金が足りずヒッチハイクをしながらどうにかイルカと泳げると言われるビーチに辿り着いた。
ようやく夢が叶うかと思ったら、泳ぐのにも金がいると言われ、日本からここまでどんな思いでどういった経緯で辿り着いたかを下手くそな英語で必死に頼み込み駄々をこねた(笑)。
あまりにも酷かったのだろう。
それを見て可哀想にと思ったのだろう。なんと、ドルフィンスイムに参加する予定のアメリカ人親子が自分の分も出してくれたのだ。
感動の初イルカとのスイムは、私がとにかくイルカと泳ぎたかったのが伝わったのか、何頭ものイルカが私に体当たりをしてくれ、ボコボコにされた。
イルカといっても2mを超えるかなりイカツイ奴等である。
本当に痛くて助けてくれ、と思ったのを覚えている。
もちろん帰りもヒッチハイクだった。
ハワイでもどこでも小銭を稼ぐために怪しいバイトをした。当時は日本人、ということで、私にはブランド製品をいくつも売ってくれるのだが、中国人や他のアジアの国の人は転売の目的で何個も同じバッグを買ったりするため、一人1個が鉄則だったらしい。
私には日本人ということで、3個くらい売ってくれるわけだ。
まぁ、かなりグレーな仕事だが、若い時はそんなこともやって小銭を稼ぎその場をしのいだりもした。
別れた友人とは、1週間後にラスベガスで再会を約束していたので、その日に間に合うようにどうにかこうにか辿り着いたのだが、手元には3ドルしか残ってなく、この3ドルからアメリカンドリームが始まるのだ!と、スロットに全てを賭けて逆にすっからかんになったのを覚えている。
確か、ピラミッドの形をしたホテルで待ち合わせていて、何時間も待っていたら自分の名前が呼ばれ、無事再会することが出来た。
不便な旅の話から、ただの不憫な旅の話になってしまった(笑)。
話を戻そう。
旅は不便の方が良い。
それは、その時の苦しみや想い、そして経験の全てが自分の知識となり五感の一部となっていくからである。
人々との出会いも素晴らしい。当時はもちろんインターネットなど無いので、同じような一人旅やバックパッカーからの情報がとても大事な情報源だった。
騙すことはほとんどなかったが、騙されることもまた旅の一部、いかにそれらを回避するかも経験から学び取る大事な要素だった。
考えてみれば人生というものも不便な旅である。
旅のパートナーや仲間を増やすことも人それぞれだ。
最後まで一人で旅する人もいる。
人間はこの困難に立ち向かう力を持っており、そこから様々な価値や意味を見つけていく。
しかし、人間のこの能力を非常に迷惑がる連中がいる。五感や感覚、潜在的な野生の能力を人間に取り戻されては困る連中が、世の中を便利で簡単な方向、オートマティック化を進め喜んでいる。
身体や感覚能力の弱体化、それは人間を奴隷化するためでありAIによる人間の支配を進める連中の要望と願望である。
現に我々は、1990年代からコンピューターとインターネットという道具を通し見事な洗脳と能力の弱体化を進められてきている。
単純化、というものは人々がほとんど同じことを考え、思い、行動することであり、それは社会を操りやすく思い通りにコントロールできるある連中の都合が良い世界なのである。
困難な旅、不便な旅、困難な人生や不便な人生は、私たちの人間力を上げ、自らの頭で考え行動をする能力を取り戻すものなのではないだろうか。
便利な世界も良いであろう。
なんでもすぐに手に入り、苦労をしないで世の中を渡る。
それが悪いということではない。
しかしそれは、無意識にその便利さを利用して自分たちに都合の良い世界を望む者たちの罠でもあり、人間が人間であるための大切なものを失う始まりでもある。
人間の能力は物凄く不思議なものである。
10代の時に交通事故に遭い、右手を切り落とさないと壊死をすると言われ、
物凄く悩んだことがある。
偶然検診に来ていた大学病院の先生から、
「いやいや手術すれば切り落とす必要はない」と言われ急いで病院を移り手術をした。
おかげでとりあえず右手はくっついてはいるが、それから手首は曲がらず、
最近では寒い時などはかなり痛みが厳しいのである。
箸を使うのも億劫な時もあるが、しかしこのお陰で私は左手を使う機会を得るようになる。
するとやはり右脳が働き、自分でも意識できるほど考え方や思考が変わったのである。
まさに「怪我の功名」とはこういうことである。
事故が無ければ見えなかった世界が皮肉な話だが見えたことは間違いない。
未だに不便に思う自分の右手も、ここまで一緒に生きてくるとそれはそれで愛おしいものである。
私の人生など、実際はまだ本当の不便や困難を迎えてはいないのだろう。
それはわかっている。
戦後70年以上日本は平和な国、世界だったと言われる。
私たちはその甘いそして怪しい時代に生きてきた。
これから来る時代がどんなものであるかはわからない。それがとても不便なものになろうとも、人間の能力を取り戻せるというのであれば、それはそれで素晴らしいことなのかもしれない。
インドネシアや海外で敢えて過ごす不便さや困難は、自分の感覚を保つための無意識の自己防衛本能なのかもしれない。
情報や常識に囚われないように、
今日もちょっと不便な生活をしよう。
さぁ、マンディーだ!!
※マンディーとは、インドネシアで水浴びのこと。うちはシャワーが無いので桶で溜めた水をかぶるだけ。インドネシアスタンダードである。