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我々は自然の一部である。全ては食から繋がっている――栗林隆

TRIP MUSEUM庭師の旅
何百年も昔からここに住む人々はこの景色を眺めてきた。洞窟文化の色濃い街マテーラ。

イタリアといえば食の宝庫。ピザ マルゲリータの発祥の地がナポリであるように、南の方は独特な食文化を持っている。
マテーラで有名なものといえば、マテーラパン。外はカリカリで中が柔らかいそのパンの上に、トマトやズッキーニ、ほうれん草や豆系のパテを乗っけて食べることや、スープにパスタやパンを入れてあるその食文化は、この土地独特のものである。

イタリアの恥、と言われたマテーラも1993年に世界遺産登録されてからは見違えるほど美しい街となった。

ホテルで出される朝食も地元ならではの食材。カプチーノを飲みながら贅沢な時間が味わえる。

考えてみれば、食、というものも一つの旅である。
Eatrip(イートリップ)
それは美食家の連中にとって当たり前のことであり、
「何を言っているんだ?旅とは、それ、食のことであろう!」
という人も少なくない。

しかし、残念ながら私はそれほどグルメな人間ではない。

もちろんなんでも食べられれば良い、というわけでもなく、食の良し悪し、美味しいものは間違いなく美味しいとわかるし、ここ10年近く、マクドナルドのようなファーストフードは食べていない。

4年ほど前一度だけ、シンガポールで3日間徹夜し、晩飯も食えずフラフラだった時に、美術館に頼んで持ってきてくれた夜食がビッグマックだった。
背に腹は替えられず食べたビッグマックが最後である。
懐かしい味がした。

さて、今回はEatrip
食の旅の話をしよう。

養老孟司さんが

「実は人間も自然なんですよ。
自分が自然であることの一番の典型が身体なんです。
あなたの体重何キロか知らないけど、一番最初が0.2mmの受精卵としてそれが今60キロだとしたらその60キロどこから来たんですか?
全部食べ物でしょ?
ってことは完全に自分は周囲と繋がっちゃってるんですよ。
私たちは自然の一部にすぎないでしょ?」

という話をしてくれた。

そう、私たちの体の大部分は、食べたものによって構成されている。
この、あまりにも無意識に行う、「食べる」という行為は、実は身体だけではなく、思考、精神にまで影響を与える、大変大事なものである。
この、口にするもの、また口にしたものの旅を今回はじっくり考えてみようと思う。

先にも話をしたが、私は今、インドネシアのジョグジャカルタというとろころに住んでいる。
よく言われるのだが、インドネシア料理って何?インドネシアを代表する食べ物ってなんだったっけ?という質問だ。
確かに、料理名といえば、ナシゴレンとミーゴレンという、炒飯と焼きそばの名前しか思い起こせない。
例えば、タイ料理ならばパッタイだ、トムヤンクンだ、ソムタムだなんだと多くの有名な料理が存在する。韓国料理にしても、もちろん日本料理にしても、多くの国際的に有名な料理が沢山あるものである。

確かにインドネシア料理は思いつかない。
しかも、誰も知らない。
しかし、私はインドネシア料理が大好きだし、多くの遊びに来た仲間たちは皆、口を揃えて、「インドネシアは飯が美味い!!」と言う。

不思議な話だ。

まず、インドネシア料理はどんなものかという説明をしよう。
インドネシアには、「ワルン」という、いわゆる小さい食堂が沢山存在する。料理はすでに出来ており、自分でバナナの皮や、お皿の上にご飯をつぎ、後は色々な種類の惣菜を自分で好きなだけよそえば良いのである。
肉が好きな人は肉を、魚の人は魚、大豆の人は大豆、皆それぞれ好きなものをご飯の上によそって食べるのだ。

そして「サンバル」というインドネシアでは当たり前の薬味がある。
チャべという、いわゆる唐辛子をすり潰し、ニンニクや玉ねぎ、時にはエビや魚など、それぞれ色々な素材と組み合わせた様々なサンバルは、ご飯やスープ、何にでも合い、インドネシアに来たら欠かせないものである。
もう、サンバル無しでは生きていけない!そんな特別な薬味なのだ。

ワルンで盛った昼ごはん。これで大体100円前後なのである。

話は変わるが、私は東京の練馬に倉庫を借りているのだが、その倉庫から歩いて1分くらいのところに、「うみないび」という沖縄料理屋さんがあった。練馬に行く度に気にはなっていたのだが、そろっと中を覗くといつも満席で、いかにも常連、といった感じの客たちで賑わっていた。
奥には白い髭を蓄えたいかにも琉球の海ん中!っていうおとーさんが座っていた。

ある時、思い切って店に入ってみると、驚いたのは、その料理だった。

そこまで沖縄料理の通というわけでもないし、そんなに何度も沖縄に行ったことがあるわけでもないのだが、今まで自分が通ったことがある沖縄料理のそれとは、圧倒的に味が違っていた。
あまり得意でも気にもしていなかったタコライスが、絶叫するほど美味しいのである。
もちろん、普通にメジャーであるゴーヤチャンプルやソーキそばも、まったく違う次元のものであった。
痺れてしまった。

それからはもう、練馬に行くたびに、それこそ毎日のように「うみないび」に通ってしまう自分がいた。
そして当然のように、真っ白の髭を蓄えたおとーさんの席の前に座っている自分がいた。

おとーさんの席の前に出てくる食事やつまみは、当然お店のメニューに載っているものではない。
厨房に入っているお母さんがおとーさんのために作った特別メニューである。
いわゆる地元の郷土料理である。

店のメニューに載っていない食べ物を私は毎回口にできるようになったのである。

今はもう閉じてしまった「うみないび」にて、沖縄出身のおとーさんお母さん。お母さんが作る食事は、絶品! もう食べられないかと思うと残念でならない。

世の中の食べ物の美味しいもの、というものはなんなのだろうか?
ミシュランの三ツ星のついたレストランは確かに美味いのだろう。
しかし、わけの分からん、べらぼーな値段がついている。

インドネシアに関して言えば、三千円の飯が食べられる店よりも三百円の飯の店の方が間違いなく美味しい。
金を持っている連中が、安心と安全を買うためにコストが高い店を選ぶことは理解できるのだが、それが必ずと言っていいほど味に繋がるかといえばそうでもないのがアジアの世界である。

では何が違うのだろう。

先に話をした「うみないび」のおとーさんが今年8月にインドネシアに遊びに来た。
まさか?と思っていたのだが本当に遊びに来てくれた。
その昔、遠洋漁業でスペインなどのヨーロッパまで旅をしていたというおとーさんは、当時一緒に働いていたフィリピン人の船員などにタガログ語を教えてもらい喋っていたらしく、アジアが懐かしいと言って本当に遊びに来てしまったのである。

朝早くに流れるアザーンの音階が三線と同じ音階だ、とか、屋台で食べたミーアヤムのスープの出汁が昔の沖縄の軍鶏と同じだなど、多くの沖縄との類似点をジョグジャカルタに見つけ出し、そして東京の1日が24時間だとしたら沖縄は1日が30時間で、ジョグジャカルタは1日が34時間なぐらいゆっくり流れてるよ、と大喜びして帰って行ってくれた。

そのおとーさんが言っていたのが、とにかく食べ物の素材だ。
確かにおとーさんが言っていた、軍鶏と言われるスープの出汁は、そこらへんに走り回っているただの鶏だし、料理に使われる野菜たちは、見た目も色も食べられないのでは?と思われるようなみすぼらしいものばかりである。気候のせいもあるのだろうが、買った野菜は3日ほどで傷み出し、保存するくらいだったら捨てて新しい食材を買った方がよほどエコである。

私は作品制作や、大学の授業のために年の半分近くは日本に帰ってくるのだが、日本に帰ってくると必ず顔がむくみ体重が増える。
もちろんほとんど全ての人が、それは酒の飲みすぎだろ!とツッコミを入れるのだが(笑)私はそれだけでないことを理解している。

インドネシアでは三食朝昼晩としっかり食べても、その食事の中に多くの野菜が含まれ、その野菜たちは無農薬で新鮮なものばかりであるから逆に体がしまっていくのである。
日本に帰ってきた独り身の私が食べるのもといえば、定食屋の焼き魚、エビフライやカツ丼、そしてラーメンなどの麺類である。蕎麦やうどんも大好物なのでよく食べる。そして夜は酒を飲みながらつまみを食べるのが普通の日本での食生活だ。
そこにはなかなか無農薬の野菜たちが登場してくれないのである。

意識の高い女性やベジタリアンの男性など、日本でも十分野菜は取れますよ、という人たちは沢山いる。勿論それはわかる。
しかし、それほどグルメでもなく、普通に美味しいものを食べて健康でいたいと思う、特に独身男性には、実はあまりきちんと食事が取れる場所というのが少ないのだ。

偶然「うみないび」を見つけた人間はラッキーだろう。
しかしその「うみないび」も25年の歴史を9月に終えて今はない。

人間の根本を作り上げる、そして自然と繋がる食べ物は、いったいどこで食べられるのだろうか。

近年、とにかくコンビニエンスストアーが増えた。セブンイレブンなど場所によっては下手すりゃ50メートルの間隔で並んでいる場所もあるくらいである。

多くの日本の現代人、特に若者はコンビニの弁当やおにぎりを食べさせられるよう仕組まれてしまっている。
これは経済の話ではないのだ。
人間の根本を作る自然という食べ物と、人間が根本的に自然であるという自然との繋がりを無意識に断たれているのが現代という時代なのである。

ちょっとのことで死にはしない、ということを歴史的に学んできた連中が、意識的に無意識に食べさせる環境を作ってきたとしか思えない今日この頃。

給食や学食が健康をモットーに作られているように感じさせられている今、その意識の見直しを迫られている。

そう言えば、
10月にトークで足を運んだ某大学の学食は、素晴らしく美味しいご飯を食べさせてくれた。
学校の学食が楽しみで大学に行きたくなる、なんて、何て素晴らしいところなのだ!と新しい発見をさせられた。

しかし一番の衝撃は、
河童師匠が毎朝いれてくれる“ただのお茶”だった。

遠藤一郎という男がいる。
前の連載でも書いたことがあるが、彼は人間として訴えても何も変わらないと、世の中を嘆き、数年前から河童になって人間界に物申している。
今回は大学でその河童師匠とトークをしたのだが(河童目線でアートや世界を語ってくれたのだが)非常に面白く有意義なトークとなった。

その河童師匠のお茶だが、無添加無農薬の“ただのお茶”なのである。地元静岡で愛情込めて作り、そしていれてくれる河童師匠のただのお茶は、彼の想いが追加され尋常じゃない美味さなのであった。

そのお茶を飲み始めてからである、その後配られたペットボトルに入っているお茶が、実はただの濁ったまずい水であり、お茶でないことに気付かされたのは。

衝撃である。
もうコンビニや販売機で売っているお茶が完全に飲めなくなってしまったのである。

河童師匠(中央)の「ただのお茶」は、人間の本能を呼び覚ましてくれる。

現代社会の日本において、我々が食べられる本当の自然と繋がったものは限られてきている。

意識して食べないと、私たちの本当の食の旅は終わってしまうのである。

Eatrip(イートリップ)。

我々は、自然との繋がりを断たれることを断固拒否しなければならない。