■ポピュリズムの問題は対立ではない、多様性の否定だ
――米国やハンガリーでポピュリスト政治家が政権に就き、イタリアやオーストリアでは連立政権に参加しました。10年前に予想もしなかった事態が進行する一方、ポピュリズムとは何か、依然としてよくわかりません。しばしば「エリートと民衆との違いを際立たせたうえで、民衆の側に立とうとする政治」と定義されます。
「ただ、『反エリート』の側面を強調しすぎると、権力に立ち向かう政治家全体がポピュリストとなりかねません。権力に批判的であること自体は極めて健全で民主的な取り組みです」
――ポピュリストとは、敵と味方を明確にわけて対立をあおる政治家ではないのですか。
「でも、民主主義のシステムは対立を前提にしています。民主主義とは、憲法などのルールの下で文明的に争うことです。社会の分断自体は、問題ではありません」
――ポピュリストは、国家や民族のアイデンティティーをしきりに強調してもいます。
「現代の現象を読み取る際、『すべてアイデンティティーのせい』などという安易な説明を避けなければなりません。一方で、政治とはアイデンティティーを形成する営みです。誰がどれだけのものを得るかという経済的な利益だけには還元できません」
――つまり、分断やアイデンティティーの強調自体が問題ではないのですね。では、ポピュリストの脅威とは何でしょうか。
「社会が分断されておらず一枚岩だ、というのが、ポピュリストの解釈です。ポピュリズムが民主主義にとって脅威なのは、多様性を認めない『反多元主義』の性格を彼らが持つからです。多様性を否定すると、民主主義も成立しません」
「共産主義や一部の宗教も反多元主義的な性格を持ちますが、ポピュリズムの特徴はそれを民衆の名において進めることです。ポピュリズムは、世の中を『均質で一枚岩の民衆』と『腐敗したエリート』の対立ととらえ、道徳的に正しい指導者が『真の民衆』を統率すべきだと考えます」
■「ポピュリストの声」=「民衆の声」ではない
――ポピュリストの台頭は、既成政党の衰退と軌を一にするように見えます。
「既成政党が衰退して新たな政党が現れる現象は民主主義につきものの刷新過程であり、代表制民主主義の危機を意味するわけではありません。社会の変化に対応するのが民主主義のダイナミズムというものですから、いつも同じ政党がある方がむしろ異常です」
「ただ、政党システムの再編成がポピュリズムに道を開いたのは間違いありません。1990年代初期のイタリアでは、古い政党の枠組みが崩壊したのを機に、政界浄化を訴えるアウトサイダーが政界に参入しました。それが、ベルルスコーニや現在の『五つ星運動』の成功につながりました」
「メディアを巡る構造の変化もポピュリストに有利に働きました。彼らは、政治と民衆とを仲介するものを排除したがります。それが政党であり、伝統型のメディアでした。ツイッターのような技術が政治指導者と民衆を直接結びつけやすくしたのは間違いありません」
――そのような制度のほころびを見いだし、戦略的に振る舞うポピュリストは、大した才能の持ち主に思えます。
「ただ、彼らが社会に対して特別な洞察力を備えていると持ち上げるのは間違いです。『自分たちの声が政治に反映されていないと訴える人々の声をポピュリズムが拾っている』などという言説を信じてはいけません」
「代表制民主主義は、民衆の利益やアイデンティティーを政治システム上に機械的に復元する制度ではありません。『社会のこの部分を代表する人がいないから誰かが担う』というような単純な話ではないのです。代表制民主主義は、もっともっとダイナミックな営みです」
「民衆が何を自らの利益と考えるか、何を自らの基本的なアイデンティティーと見なすかは、天から与えられたものではありません。政党、市民社会、メディア、友人、家族といったものによって、生き生きとした過程を経て練り上げられるものです。多くの要素が介在し、常に変化するのです」
――ポピュリズムを「民主主義ならではの現象」と受け止める人は少なくありません。「選挙で支持を集めるポピュリスト政治家はそれなりの正統性を持つ」と考える研究者も多いようですが。
「よく『見捨てられた人々をポピュリストが政治に引き戻した』などと言う人もいます。全く違います。彼らは、声を上げない多数派(サイレント・マジョリティー)の代弁者でなく、声の大きい少数派の代弁者に過ぎません。彼らの言説に耳を傾ける必要はありますが、それを民衆の声だと勘違いしてはなりません」
「ポピュリストが政権を握ると、民衆の声を吸い上げるかというと、全然そんなこともないのです。ハンガリーを例に取ると、オルバン政権になって憲法が改正され、民主主義は逆により制限されました。米国のトランプもそうですが、口先では民衆の味方のふりをしつつ、やっていることは逆です」
――では、ポピュリズムは、かつてのファシズムのようなものでしょうか。
「ファシズムは暴力や差別と切り離せない存在で、暴力的な闘争こそが素晴らしい人生だと考えていました。ファシズム国家が例外なく戦争に行き着いたのは、決して偶然からではないのです」
「一方、ポピュリストをファシストになぞらえても、ポピュリストは『誰も暴力を振るっていないじゃないか』と反論し、かえって彼らを助けることになります。ファシストはすべてポピュリストですが、ポピュリストがすべてファシストとは限りません。両者に共通するのはむしろ、自らだけが民衆の代表だと主張することでしょう」
――「ポピュリズム」という言葉には、「これも民主主義の一形態なのだ」というやや肯定的なニュアンスも含まれそうに思えますが。
「ハンガリーやポーランド、トルコの状況は、もはや民主主義の枠を逸脱しています。これはもはや、民主主義そのものへの挑戦です。『欠陥民主主義』と名付けることができます」
「欠陥民主主義の世界は、秘密警察が夜中にドアをノックするのではとおびえる『独裁』とは違います。選挙があって、言論の自由も一部残り、議会も少し機能する。同時に、民主主義の基本的な権利は損なわれ、制限され、行使できない。これらの国で、理論上はともかく現実的に政権交代は可能でしょうか」
「民主主義が意図的に損なわれているのですから、『欠陥』よりも『損なわれた民主主義』という表現が当たっているかも知れません。欠陥車が故障して修理を待つ段階ではなく、誰かが車を操っている状態。オルバンやポーランドのカチンスキ、トルコのエルドアンといった指導者は、意図して国を操ろうとしています」
――むしろ「操られた民主主義」?
「その用語に異論はありません」
■今の枠組み、不朽とは考えない
――ポピュリストに対して、他の政治家はどう振る舞うべきでしょうか。一時「彼らを政権に取り込んでしまえ」という試みがありました。ポピュリストの得意技は既成の権力批判にあるので、自ら権力側に身を置くことは自己否定につながり、勢いがそがれるからです。実際、2000年にオーストリアでハイダー率いる右翼「自由党」が台頭した時、右派「国民党」はあえて彼らと連立政権を組み、自由党を弱体化させました。
「ポピュリズム対策に万能薬はありません。『取り込めば彼らは穏健化する』というのは政治学者のお題目ですが、そう思惑通りにいくとは限りません。2000年のオーストリアの場合、確かに国民党はうまく立ち回りましたが、自由党は結局消滅しなかったどころか、その後勢力を盛り返したのです」
「私たちはしばしば、我ら立憲民主主義者だけが教訓を学んで成長していると思いがちです。『それに比べ権威主義者は愚かな連中だ。何も勉強しないから、1991年のソ連のように崩れ去るに決まっている』と考える。だけど違うのです。中国からハンガリーまで、彼らは彼らなりに、歴史からも自らの経験からも学んでいる。オーストリアの場合も、自由党は今やずっと巧みに、ずっとプロフェッショナルになったではないですか」
――ポピュリズムには、右翼ばかりでなく左翼もあります。左翼ポピュリズムをどう評価しますか。右翼と同じく危険な存在でしょうか。
「現代の左翼ポピュリズムの典型的な例はベネズエラです。チャベス政権からマドゥロ政権に至り、ポピュリズムが権威的体制に移行しました」
「ただ、欧州の左翼ポピュリズムは、まだ歴史が浅いだけに判断が難しい。スペインの左翼政党『ポデモス』やギリシャの『急進左翼進歩連合』(シリザ)の場合、普通の左翼政党になる可能性があります。その場合はむしろ、政党システムの健全な形での刷新であり、希望が持てる兆候だといえます」
――民主主義が損なわれ、操作されてきたのがこの10年間だとすると、次の10年間で世界はどうなりますか。
「予言はできませんが、政党民主主義がこのまま消え去るとは思えません。確かに既成政党はなくなるかも知れませんが、だからといってそれが代議制度の危機を意味するわけではない。むしろ、政党民主主義の刷新につながる可能性もあります」
「一方で、何か全く違ったものが台頭するかも知れません。現在の動きで最も急進的なのは、イタリアの五つ星運動の例です。政党や大手メディアといった仲介機関の排除をうたい、人々が直接働きかけて政策を決定する仕組みをつくりました。こうした実験がどのような道をたどるか、幅広い視野からしっかり見つめなければなりません」
「つまり、民主主義は終わりなき実験の繰り返しなのです。現在ある制度の枠組みがこれからもずっと続くなどとは、考えない方がいい。自由や平等といった概念を別の方法によって実現する時代が来るかも知れません。新たな制度の枠組みが生まれる可能性もあります」
――あなたは、国家のアイデンティティーを文化や民族に置くのでなく、民主憲法が指し示す人権や平等、多文化主義などといった理念に置く「憲法愛国主義」の継承者と見なされています。ただ、難民危機や保護主義の台頭で人々が内向きになる中、先進国の憲法がうたう価値観は今後も力を持ち得ますか。
「確かに、憲法愛国主義は今、守勢に立たされています。移民問題について多くの政治家たちがナショナリズムや右翼ポピュリズムに譲歩したのが一つの理由です。その結果、『多文化主義はもはや時代遅れだ』『我々の文化が損なわれる危機に対応しなければ』といった言動がまかり通るようになりました。ただ、反撃の余地はあると思います」
――日本の場合どうでしょうか。日本国憲法の中心にある理念は平和主義だと思いますが、果たして国民が「日本のアイデンティティー」と認識しているか。むしろ、改憲を目指す政府はこの理念に手をつけたいようにも思えます。
「日本についてアマチュアの私が発言するのは避けたいと思いますが、一般的に言うと、改憲自体は民主的に正当な行為といえるかも知れません。問題は、その状況です。自由や平等といった観点にかなうボトムアップの試みなのか、民衆を操作しようとするトップダウンの過程なのかで、大きく違います。これは単なる私の印象ですが、日本の場合、真に改憲を求める人々の声がボトムアップで出てきているようには見えないのです」
■インタビューを終えて
私たちは今、変化のさなかにいるのだろうか。
政党政治の揺らぎとポピュリズムの伸長、従来の知識が通用しない急速な技術革新、グローバル化の波とその反動が迫る。10年前に予想もしなかった風景が目の前に広がり、10年後の姿は想像できない。これは、冷戦後の開放的な世界の終焉なのか、国際社会が戦後築いてきた秩序の崩壊か。
しかし、現在の変化は、実はこれまでも繰り返された緩やかな進歩、細部の変動に過ぎないかも知れない。紛争やテロで混迷を極める地域もあるが、安定に向かう地域もある。多くの人の生活や秩序そのものが脅かされるというより、「今後危うくなるのでは」といった不安が広がったようにも見える。 この不安を吸い取って騒ぎ立てる人がいる。人々の懸念を増幅し、自らの支持につなげようとする人がいる。このような扇動に乗せられぬよう心がけたい。必要なのは、歴史をしっかり踏まえ、情報の真贋を見極め、世界の流れを読み取ることだ。ミュラーの指摘を、そう読み解きたい。(国末)
ヤン=ヴェルナー・ミュラー Jan-Werner Müller
1970年ドイツ生まれ。オックスフォード大学で博士号取得。現在、プリンストン大学教授。専攻は政治思想史、政治理論。独思想家ハーバーマスらが発展させた理論「憲法愛国主義」の継承者として知られ、ナチスに協力した法学者カール・シュミットの研究でも著名。著書に「ポピュリズムとは何か」(岩波書店)、「憲法パトリオティズム」(法政大学出版局)、「カール・シュミットの『危険な精神』」(ミネルヴァ書房)など。近刊予定に「試される民主主義」(岩波書店)。9月に朝日地球会議参加のため来日。
ポピュリズム
ポピュリズムの定義には諸説あるが、ポピュリズム論を集大成した「オックスフォード・ハンドブック ポピュリズム編」で、オランダ出身の政治学者カス・ミュデは「社会が『純粋な民衆』と『腐敗したエリート』という二つの均質で対立するグループに分かれていると見なし、『政治は民衆の全体的な意思を示すべきだ』と主張するイデオロギー」と定義する。ミュラーはむしろ、「民衆の意思は均質である」と見なす点にポピュリスムの特徴がある、と考える。
憲法愛国主義
国家のアイデンティティーを、文化や民族でなく、憲法がうたう人権や平等、多文化主義といった原理や理念に求める考え方。ドイツを代表する思想家ユルゲン・ハーバーマスが発展させたことで知られた。
オルバン・ヴィクトル
保守政党フィデスを率い、ハンガリーで2010年から2度目の政権を担う。憲法裁判所の機能縮小など強権的な政策を進め、EUとしばしば対立する。移民や難民に対して強硬な姿勢も取る。