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遠洋マグロはえ縄漁師の世界

World Now 更新日: 公開日:
photo:Yorimitsu Takaaki

極限状態の中、マグロを釣る

初めてマグロ漁師と知り合ったのは高知県室戸市にいた28年前だった。

当時、室戸には遠洋マグロはえ縄漁船の乗組員や漁労長がたくさんいた。酒場で彼らと会う度、いろいろな話を聞かせてもらった。おしゃべりな人間はいないが、求めると話をしてくれた。全く知らない世界の話だった。すさまじく魅力的だった。

20人余りが乗り組んだ300トンの船で世界の海に出張る。日本に帰るのは1年か2年あと。狭い船の中、同じ顔ぶれでひたすらマグロを釣る。「スエズ運河とパナマ運河を通らんと1人前じゃない」と話す男がいた。「マゼラン海峡を通って1人前」と話す漁労長もいた。ラス(ラスパルマス。スペインのカナリア諸島)、ケープ(ケープタウン。南アフリカ)、ハリファクス(カナダの大西洋岸)、タスマン(豪・タスマン海)、アビジャン(アフリカ・コートジボワール)などの地名がごく自然に飛び交った。

遠洋マグロはえ縄漁船を漁師は「縄船」と呼ぶ。文字どおり、長い長い縄を海に這わすからだ。長さは実に180キロ。船を走らせながらその縄(幹縄)を海に這わせていく。船尾から勢いよく縄を出し続ける、と表現した方が適当かもしれない。

もちろん縄だけでは魚は釣れない。船から幹縄を出すとき、一定間隔で枝縄を付けていく。枝縄の先にスナップ(留め具)がついていて、それを幹縄に引っかけるのだ。枝縄の片方は釣り針で、別の人間がそこに餌のサンマやイカを刺す。海に張った幹縄から何千本もの幹縄が垂れ、その先につけた餌でマグロを釣るということだ。幹縄を海に這わせる作業が4、5時間。かかったマグロを引き揚げながら、延々と縄を揚げる作業に12時間。縄が切れたりするとさらに時間がかかる。操業に入るとそれこそ寝る間もなく働く。「とにかく眠いんだ」と漁師は口をそろえた。

「吠える40度線」「悲鳴の50度線」という言葉も知った。南半球高緯度の暴風圏を形容する言葉だ。寒冷な暴風圏にはいいマグロがいる。実際、品質抜群のミナミマグロがいた。暴風と大波の中、ときには甲板全体が巨大な波にのみこまれたりしながらマグロを釣る。人が落ちることも少なくなかった。嵐の海に落ちたらまず助からない。
厳しい労働、閉鎖空間、死の恐怖。極限状態の中、ひたすらマグロを追う。なんでそこまで、と思った。もちろん金になるからだろう。しかしそれだけではないような気がした。漁師だからそんなことは当たり前、という感覚といえばいいか。おかの人間から見たら異常な世界を、普通の世界として生きている人々。

漁師は魅力的な人ばかりだった。1、2年操業して日本に帰り、1カ月後にはまた出港する。日本での1カ月を淡々と過ごし、淡々とまた船に乗っていった。遠洋マグロ船の漁師で自動車の免許を持っている人はほとんどいなかったように記憶している。免許を取っても日本にいないので更新ができない。時間つぶしだったのだろう、自転車でのんびりと岸壁へ釣りに行くマグロ漁師の姿が印象に残っている。南半球まで行って大マグロを釣ってきたばかりなのに、なんでまた岸壁で小魚釣るの、と思ったものだった。

15年前、遠洋マグロ漁を取材した。業界団体の全国組織に行ったとき、指導部長はこう話してくれた。「なんで非常な努力をしてあんなところにまで行くの?」とみんな思う。それに対する漁師の答えは「そこにマグロがいるから」なんだと。魚がいるから行く。獲れるなら獲れるだけ獲る。それが漁師の本質かもしれない。
しかしマグロ漁師をめぐる環境はどんどん変わっていった。

15年前に調べた話をおさらいすると、南半球に進出していった遠洋マグロはえ縄漁船の歴史はこんな感じになる。

①昭和初期、木造の40~50トン船で太平洋のマグロを釣る。はえ縄の長さは30~50キロ。
②太平洋戦争に多くの船は徴用される。残った船も監視業務に就いて米戦闘機の犠牲に。
③1952年。講和条約の締結直前、日本漁船の活動制限が解かれる。それ以降、南方海域に進出。
④1954年。ビキニ事件。マーシャル諸島周辺で第五福竜丸を含む多くのマグロはえ縄漁船が米水爆実験の死の灰を浴びる。
⑤1960年ごろ、インド洋の南緯20度付近にミナミマグロの産卵域を発見、産卵後の群れを釣る。このころから木船が鋼船に切り替わる。
⑥1960年代初め、ミナミマグロを釣りに南半球高緯度に進出。豪・タスマニア島沖のタスマン海に好漁場を発見。
⑦1960年代半ばから70年代初めにかけてミナミマグロの魚価が上昇。
⑧1970年。釣果の減少始まる。
⑨1971年、ミナミマグロの操業を季節的に自主規制。
⑩1973年、オイルショック。燃料代高騰。
⑪1977年、米、ソが200海里の経済水域を設定。
⑫1981年、減船。日本の遠洋マグロはえ縄漁船は1200隻から1000隻弱に。
⑬1985年、プラザ合意。劇的に円高が進み、輸入マグロが急増する。主要な輸入元は、台湾のマグロはえ縄漁船。70隻だった台湾船はこの後の15年で500隻に急増。
⑭1994年、アイルランド沖の北緯55~60度に大西洋クロマグロの新漁場を発見。これが最後の新漁場と言われる。
⑮1999年、減船。日本の遠洋マグロはえ縄漁船、660隻を2割減。

以上が15年前にまとめた内容。

その後、日本の遠洋マグロはえ縄漁船をめぐる状況はさらに厳しくなった。
世界の海に新しい漁場はもうなかった。魚は減り、資源を回復するために度重なる漁獲制限が行われた。外国の巻き網船が捕ったマグロを地中海や豪州、メキシコで一定期間飼育して日本に輸出するスタイルも増え、漁価が低位安定した。

コスト削減のため、外国人船員の参入枠も少しずつ増やされた。今の基本は日本人船員が6人、外国人船員が17、8人。外国人はほとんどがインドネシア人で、ケープタウンを基地にしてミナミマグロを釣る船には南アフリカ人が乗ることもある。
水産庁によると、いま日本に遠洋マグロはえ縄漁船は243隻(2015年4月1日時点)。世界の海に出張り、ときには命を的にして、きょうもマグロを釣っている。


(依光隆明)