プラスチック・ブリッツのなかには英国政府に集められた選手もいます。政府は開催国としてメダル獲得に熱心で、英国と関連のある人たちを探し出し、英国籍にしました。しかし、なかには英国の国歌を歌えない選手もいた。まずプラスチック・ブリッツとの競争に敗れて代表になれなかった選手たちから批判が起き、次にメディアが加わりました。
ただ、プラスチック・ブリッツたちが五輪でメダルを取ると状況は変わりました。成功が批判を抑えたのです。彼らは一転して英国の多様性の象徴だと評価されました。もし成功していなかったら? おそらく失敗が強調され、批判はさらに大きくなったでしょう。
開催国として政府は五輪を成功させることが至上命題でした。ある意味で、その行動は、民間企業と似ていました。トヨタ自動車はかつて日本国内だけから社員を雇っていたかもしれませんが、今は世界から人材を集めていますよね? それと同じです。グローバル化の時代、スポーツもグローバルに競争するようになりました。スポーツの世界にビジネスの論理が入ってきたことは、ある意味で驚きではありません。
東京五輪に向けて日本がどう動いていくのか関心があります。海外から日本にゆかりのある選手を集めることもありうると私は思っています。特に、日本ではあまり盛んでないスポーツの場合、海外から選手をリクルートすることがあるかもしれません。
今でも親のどちらかが外国人という選手が増えていますよね。そういう選手が、もっと増える可能性はある。アスリートだけではありません。コーチやスポーツ分野の医師や科学者にも外国人は増えています。日本は民族や文化が多元的な国ではないと言われていますが、グローバル化を受けた結果だと思います。欧米で起きているような多元化が、日本を含む北東アジアの国々のスポーツでも、これから起きていくのではないでしょうか。
しかし海外から来る選手に、どこかでラインが引かれることもあるでしょう。例えば、卓球では中国が圧倒的に強く、中国人が他の国々に移って代表選手になっています。でも地政学的に、また歴史的にライバル関係にある日本では、もし何年も日本に住んでいる中国人がいて国籍を日本に変える要件が整っていたとしても、彼らが日本代表になることは想像できません。ここにナショナリズムやアイデンティティーの問題が出てきます。
先ほども話したように、今のスポーツにはビジネスの要素が色濃くなっています。それは、おそらく英国代表がリオ五輪で活躍しそうなことともかかわっています(注・インタビューはリオ五輪以前に行った)。
英国政府はロンドン五輪後も世界水準の選手を育てるプログラムにお金をかけ続けています。ここにおいてスポーツへのロマンといったものは、大きな役割を果たしません。目標を設け、それをどう達成するかという冷静な思考だけがあります。どのスポーツがメダルを取れるか合理的に計算し、投資をしています。企業が良い業績を出せばさらに投資を引き出せるように、メダルという結果を残せばスポーツへの投資も続くのです。
日本はどうするでしょうか。その選択は、日本の五輪関係者、政府、国民にかかっています。五輪に何を望むのか。その望みがメダルの数ならば、それを成し遂げるための戦略を採らなければいけません。