ぶどう畑のような棚に、青々とした葉っぱが生い茂る。根元には長さ2センチほどのさやがいくつもぶらさがっていた。
「ロロコ」と呼ばれるこの実は、タラの芽のようなさわやかな香りが特徴で、日本のお焼きのようなエルサルのソウルフード「ププサ」の具の定番だ。
栽培・加工を手掛けるラキルバ社生産担当部長のホセ・サルセニョ(36)は、「昨夏に米国の見本市で大口の輸出契約がまとまって、売り上げが飛躍的に伸びました」と話す。
ふるさとの味を懐かしむ在米移民に原材料として届けるほか、調味料やパスタソースなど広い客層を狙った加工品も商品化。2014年に8万ドル(約850万円)だった売り上げは、17年に25万ドルと3倍に増えた。保存加工施設ができる今年は、一気に100万ドルを見込む。カナダやスペイン、台湾などからも関心が寄せられており、22人の従業員は年末までに40人に増やす予定だ。
もともと自生していたロロコの栽培が始まったのは約30年前。前市長で一村一品運動の市委員会代表ホルヘ・オルティス(60)は、「昔は『ロロコしか作れないんだろう』と馬鹿にされるような作物でした」と振り返る。栽培は小規模で、生産者同士の足並みはそろわず、仲買人に買いたたかれがちだったという。
転機は2010年、国際協力機構(JICA)のボランティアの一言だった。
「地元の特産品じゃないですか、と言われて気づいて、目が覚めたんです」
ロロコと、もう一つの特産品で梅のような果実の「ホコテ」を売り出そうと、JICAや政府の後押しで市を挙げて商品開発を進めた。
生産者がまとまって組合を作ったことで交渉力が高まり、倍の単価で出荷できるようになった。ロロコとホコテの祭りも観光客の評判を呼んだ。
いつしか、「ロロコといえばサンロレンソ」と認知されるようになった。
町は変わった。
ロロコは500ヘクタール、ホコテは900ヘクタールまで生産が拡大し、働き手の4人に3人が関係する産業の柱に育ったという。3人に1人が移民ともいわれるこの国で、人口約1万人のサンロレンソでは移民は3%ほど。青少年ギャング「マラス」の構成員はおらず、国内の自治体で治安は最もよい水準という。屋台フェアを毎月開くなど、きれいで安心な観光地としても売り出している。
オルティスは言う。「雇用ができることで、大人が米国に移住せずに残り、子どもはマラスに入らなくて済む。子どもの面倒を見る大人がいることが大事なんです。今では、ロロコを作っている町なんだぞ、と大きな誇りを感じています」
その後、サルセニョやオルティスたちは3月中旬、エルサルバドル各地でつくった「一村一品」の特産品を集めた物産展を、首都サンサルバドル市内のショッピングモールで開いた。
JICAによると、ロロコをつかった激辛スパイスやコーヒーなど14市から計70の特産品が展示され、1週間で約1万人が来場し、約1万5千ドル(約160万円)を売り上げた。
一村一品運動が目指すのは、地域の人たちの「自主・自立」。今回の物産展では、生産者の全国組織が運営を担い、出店や輸送などの費用もすべて生産者たちが自分で負担したという。
ロロコとホコテ
JICAによると、ロロコは中米原産のツル科植物。ビタミンA、B、Cと鉄分が豊富で、収穫期は7月~9月。ホコテは中米特産のカシューナッツ科の果樹で、果実には梅に似た食感と酸味・甘みがあり、食物繊維とビタミンA、Cに富む。サンロレンソでは「赤男爵」と呼ばれる品種を栽培し、主な収穫期は2月~4月。
一村一品運動
国が米の増産を奨励していた1961年、当時の大分県大山町(現在は日田市)が「梅栗植えてハワイへ行こう」のキャッチフレーズで、地元の梅、栗の栽培を進めた町づくりがモデル。大分県の平松守彦知事が79年に運動として提唱し、その後アジアなど世界に広がった。エルサルでは2010年に始まり、有機栽培コーヒーやドライフラワー、ハンモック、織物など56市に広がり、エルサル政府は16年10月、一村一品国家政策をまとめた。