「世界初」が起きたのは2014年5月16日の夕刻だった。場所は長崎市多以良町、水産総合研究センターの西海区水産研究所。
「水槽全体が真っ白になって。精子で白濁したんですね。どこにマグロがいるのかも見えないくらい。もやがかかったような状態でした」
まぐろ増養殖研究センター長の虫明敬一(57)が説明する。
真っ白になったのは陸上施設内に設けた直径20メートル、深さ6メートルの採卵用水槽。そこに入れていた人工孵化のクロマグロ親魚約40匹の一部が産卵し、狙い通りに受精卵を得た。
「2、3匹の雄が1匹の雌を追う、そういう追尾行動が水槽の中で何カ所も起こるんですよ。1回に追尾するのは長くて30秒くらいでしょうか。で、いったん静まるんですけどまた追尾が起こります。それが断続的に起きて……」
雌が産卵し、雄が精子をかける。産卵行動は8月終わりまでの3カ月続いた。入手した受精卵は水槽二つで計5000万個。採卵目的の陸上施設でクロマグロが産卵したのは世界初だった。
施設の完成は13年6月。国はここに21億円を投じた。そこまで力を入れるのは、陸上施設での採卵が養殖ビジネスの鍵を握るからだ。
一般的な日本のクロマグロ養殖は、漁獲した0歳の稚魚を3年間生け簀で育てて出荷する。ところが乱獲を防ぐため、15年1月から稚魚や幼魚の漁獲規制が始まった。急速に注目を集めたのが完全養殖だ。天然の親魚から卵を採って孵化させるのが人工孵化で、人工孵化させて育てた親魚の卵を孵化させると完全養殖となる。完全養殖が定着すれば天然の稚魚を捕る必要がない。
海の生け簀を使った完全養殖は02年に近畿大学が成功させたが、ビジネスとして定着させるには大きな課題があった。産卵時期のコントロールだ。稚魚は海の生け簀で初めての冬を越す。狭い生け簀で寒い冬を乗り切るには体重が3キロほしい。4、5月に産卵させれば3キロに達するのだが、生け簀のクロマグロが産卵するのは7、8月。それだと1キロほどで冬場を迎えるため、死ぬ魚が増える。産卵時期を早めるには水温を調整しなければならない。そのためには陸上施設が要る、という図式。
しかし陸上施設には採算を超えた巨費が要る。養殖ビジネスの最大の課題がそこだった。
クロマグロの卵は受精して24時間ほどで孵化する。「世界初」の受精卵のうち300万個が鹿児島県・加計呂麻(かけろま)島にある研究所の奄美庁舎と、長崎県の水産試験場に送られた。
長崎から加計呂麻島まで陸、空、海路で計9時間。奄美庁舎にいる種苗量産グループ長、塩澤聡(57)が振り返る。「着いてすぐに孵化が始まりました。クロマグロは400キロにもなりますが、卵はわずか1ミリです。孵化した翌々日にはもう餌を与えなくてはなりません。孵化後、5、6センチまで育つのは1%です」
30~40日かけて5、6センチに育て、沖の生け簀に入れる。2カ月後に500グラムまで育つのはその10分の1。出荷サイズまで育つのはさらに2分の1。つまり出荷にこぎつけるのは孵化した魚の0.05%。
生まれた直後は沈降して死ぬ、浮上して死ぬ、共食いで死ぬ。大きくなっても、少し驚くと衝突して死ぬ。それらを一つずつ解決し、出荷に至る。
「マグロって魅力的なんで、この世界に入ったときからマグロをやりたいと思っていた」と塩澤が明かす。魅力の一番に「大きさ」を挙げるが、実は以前、マグロを小さくしようと提案したことがある。マグロは大きすぎて大手の業者しか養殖できない。小さなマグロをつくったら一般の漁業者もできる、という発想だった。
苦笑いしながら塩澤が言う。「大きいからマグロであって、小さかったらブリやカンパチと一緒だと。それはマグロじゃないと否定されまして。私自身も確かにそうだな、と」
東京・豊洲のマルハニチロ本社。増養殖事業部長、伊藤暁が「陸上採卵には期待しています」と話す。同社は一時中断を経て06年度から完全養殖の研究を復活、完全養殖マグロの初出荷を6月に控えている。
天然魚を使った養殖は世界各地で展開しているが、日本の養殖システムには課題もあると指摘する。地中海では大きなマグロを捕って5?8カ月だけ飼う。日本は3年間も育てるのでコストダウンが大事になる、と。
「改善したいのは生存率と餌、育種です」と伊藤は言う。育種とは養殖に適した品種に改良すること。つまり生存率が高く、成長が早いマグロの開発。
マルハニチロも加わって進めているのが遺伝子の研究だ。横浜市金沢区の水研センター中央水産研究所。水産遺伝子解析センター長、乙竹充(55)が説明する。
「生まれてすぐにサンプリングして遺伝子型を調べると、例えば4匹の雌が産卵していたということが分かります。18日後に生き残ったのを再度調べると、生き残る子どもをたくさん生んだ親はどれかというのが分かるわけですね」
目指すのは、高い生存率と成長の早さ、病気に耐える力を持つDNAの配列を解析すること。そのような遺伝子を持つマグロを交配させれば「理想」の養殖マグロが生まれる。
マグロの精子を凍結する技術まではできている。問題は採卵だ。特定のマグロから採卵するには陸上施設が欠かせない。長崎の施設はそういう意味でも期待されている。乙竹が言う。「どのマグロを交配用として残せばいいか、それを分かるようにするのが出口です」
漁業を厳しく規制して、マグロの資源回復に成功した海がある。地中海だ。
1990年代、巻き網で獲ったマグロを数カ月養殖して太らせる技術がスペインやクロアチアなど地中海沿岸の国々に広まった。高値のトロを日本市場に供給できるとあって、巻き網船が競い合って一網打尽にし、その数は激減したとされる。
大西洋まぐろ類保存国際委員会(ICCAT)は各国に漁獲枠を課したが、密漁も横行。2007年には、漁獲枠の約2倍の6万トンが獲られたとICCATはみている。
乱獲を防ぐため、ICCATは規制を強めた。07年、30キロ未満の小型魚の漁獲について、アドリア海などの一部海域を除いて全面的に禁止。08年には「漁獲証明制度」も導入。どこでどう漁獲し、どう流通したかを証明する書類がなければ売買できないようにした。書類に不正がないよう、漁船や運搬船に第三者機関の監視員を同乗させることも義務づけた。09年、ワシントン条約で大西洋クロマグロを禁輸にする提案が持ち上がると、ICCATは翌年の漁獲枠を前年より一気に4割減らした。
効果は表れた。ICCATの科学委員会は12年、大西洋クロマグロの回復傾向を確認。ICCATは13年の漁獲枠を10年ぶりに増やした。漁獲枠は今年から3年間、さらに年2割ずつ増やす計画だ。
資源の回復を受けて、マグロビジネスは再び活気づこうとしている。
日本の水産商社ジェイトレーディングは、投資ファンドのインテグラルから40億円の出資を得て、クロアチアにある地中海最大級の養殖会社カリ・ツナを買収した。ジェイトレーディング社長の神戸治郎(42)は「餌を工夫することでトロの脂をきれいに入れたり、赤身をより赤くしたり、日本の消費者に合わせたマグロをつくれる」と意気込む。
近大に続け
一方、天然マグロの数に影響を与えない「完全養殖」の研究も進む。
スペインやドイツ、マルタなど7カ国9機関が03年、欧州連合(EU)の出資を受けて、養殖マグロから採卵して新たな養殖マグロを育てる完全養殖の研究を始めた。
中心になったのは、スペインの地中海に面した港町カルタヘナにある水産会社リカルド・フェンテスと、国立海洋学研究所だ。近畿大学でマグロの養殖を学んだ瀬岡学(45)が10年にカルタヘナ理工科大学に着任。3年後に帰国するまで、近大での経験をもとに研究協力を続けた。
マグロの稚魚は死にやすく、試行錯誤が続いたが、11年と12年に養殖場で生まれた約200匹が今年、体重25~35キロに成長。早ければ今夏にも産卵する可能性がある。その卵が孵化すれば、完全養殖は完成する。
日本では近大が02年に完全養殖を完成させ、すでにビジネスとして広がりつつある。スペインのフェンテスも完全養殖に期待をかける。昨年12月、フェンテスは養殖場生まれのマグロ2本をオランダの商社に初めて出荷した。その後もノルウェーの高級すし店に週1本のペースで出荷を続ける。社長補佐のダビッド・マルティネス(42)は「欧米の顧客は持続可能性に高い価値を見いだしてくれる。狙いは欧米市場だ」と話す。
国立海洋学研究所では、採卵用の巨大水槽の建設も進む。直径20~22メートル、深さ10メートルの二つで、長崎市の採卵用水槽より大きい。建設費600万ユーロ(約7億8000万円)はEUとスペインが出した。今夏に完成する見込みだ。
水産資源の持続可能性を考えながら消費していこうとの考え方が、米国や欧州で広がっている。
カリフォルニア州モントレー市。海沿いに、古めかしい建物が見える。モントレー湾水族館だ。
沖合でイワシが豊富に獲れたモントレーには1916年に缶詰工場ができ、地元経済を潤した。だが乱獲で激減し、工場は73年に閉鎖した。跡地に84年にできた水族館は工場の記憶を忘れないよう外観を生かして建てられた。その設立目的では「乱獲への警鐘」をうたう。
展示する魚の表示は赤、黄、緑の3色に分けられている。赤は「AVOID(避けて)」、黄は「GOOD ALTERNATIVES(良い代案)」、緑は「BEST CHOICES(最良の選択)」。赤が最も枯渇の危険が高い。水族館の隣にはスタンフォード大学の海洋研究所があり、共同で水産物の調査をしている。科学的な分析が分類を支える。
太平洋クロマグロは「赤」。説明には、「養殖のために幼魚を捕獲し、資源枯渇につながっている。消費者はすべての太平洋クロマグロについて、食べることを避ける必要がある」とある。
シーフード・ウォッチと名付けたこの試みは水族館が99年に始めた。すると、賛同する飲食店や小売店が現れた。展示の魚に加え、今ではサーモンやカニなど360種を3色に分ける。「緑」を中心に料理を出すパートナーレストランなどが全米で200店。北米中心にスーパー360店を展開するホールフーズ・マーケットも3年前から「赤」は売らず、「黄」と「緑」に分けて売る。
日本では関心薄い「エコラベル」
シーフード・ウォッチは米国独自の取り組みだ。世界的には持続可能な方法で獲った水産物の商品につける「エコラベル」が広がる。認証を担う団体の一つ、国際的な非営利団体の海洋管理協議会(MSC)日本事務所によると、MSCラベルのついた商品は今年3月末現在、世界で2万7000種類が販売された。4分の1がドイツで売られ、スウェーデン、オランダと続く。7位の米国以外は欧州の国々だ。
スペインでは、大西洋クロマグロでMSC認証を取りたいという声もある。世界自然保護基金(WWF)地中海オフィスの漁業広報担当、スサナ・サインス・トラパガ(50)は「認証のための事前審査まで進んだことがあったが、大西洋クロマグロの資源が減ったために実現しなかった。資源は回復基調にあり、今なら大丈夫ではないか。持続可能な漁業のあり方を消費者に訴えるチャンスだ」と話す。
日本では184種類のMSCラベル商品が売られている。それぞれ1000~6000種類ほどが出回る欧米の国々と比べ、関心が高いとはいえなそうだ。
3月、米東海岸のボストンで水産物を扱う企業が集まる展示会があった。多くのブースが持続可能性やエコラベルを強調するなか、日系企業のブースでは、ほとんど見られなかった。
ある日本企業の米国子会社社員は、MSC認証を取れば米国でのビジネス拡大につながると親会社に訴えた。「でも日本では普及しておらず役に立たないからと、あっさり却下されました」と嘆いた。
水産庁によると、日本は1970年代前半から、1人当たりの年間魚介類消費量が、人口100万以上の国でトップだった。07年にポルトガルに抜かれて2位、08年には韓国に抜かれ3位となったが、今も世界平均の3倍近い年約54キロの魚を食べている。
マグロ食べなくても死なないじゃん 築地マグロ仲卸・生田與克
マグロの味って知ってるかい? メジマグロ? あれはマグロの子ども。脂がさっぱりしてておいしいけど、マグロっていうよりメジという別の魚だね。天然の大きなマグロ、あれうまいよ。びっくりしちゃうもん。150キロから200キロくらいのやつがいちばんいいんじゃないかな。35年この商売やってるけどねえ、いまだに涙出るのがあるよ、おいしくて。ほんっとに。
脂ののりがいいのかって? 違うよ。いちばん基本は身あんばいってぼくら言うんだよね、身あんばい。その身あんばいってのが、いいのはねえ、ねちゃっとする感じなんだよね。身にね、全く水気がない。だから、そうそう。下ろすときに包丁が止まるんだよ。消しゴム切ったことあるでしょう。あんな感覚なの。そういう魚はうまいよ。で、もつしね。1週間くらい平気だよ。なんでもないよ。
そんないいマグロが少なくなっちゃった。原因は乱獲乱売乱食だ。負のスパイラルになってんだよね。自分も昔は安いマグロを売りまくった時があった。もうけたよ。でもこれでいいのかなと思うようになった。
大事なのは知ることだと思うんだ。いまマグロがどうなってるかを知り、乱獲されたと思うものは食べない。みんなが「我慢してもいいよ」ってなった時に変わると思う。マグロ食わなくったって死なないじゃん。
天然のものを食べてるってのは魚だけだって言われてる。だって農業も畜産もすべて養殖ものなんだよ。21世紀の今まで、自然とうまく折り合いをつけながら天然のものを食べてきたってのは素晴らしいことだよ。素晴らしい文化だよ。
まずは知るのが一番だと思う。みんな、魚のことをもっと知ろうよ。
いくた・よしかつ
東京・築地のマグロ仲卸「鈴与」3代目。一般社団法人シーフードスマート代表理事。52歳。『あんなに大きかったホッケがなぜこんなに小さくなったのか』『おいしい魚の目利きと食べ方』など著書多数。