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西へ西へ ー旅をめぐる旅

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旅をめぐる旅/道中記1

photo:Fujiwara Gakushi

海が見える。そして、海しか見えない。

6月23日午後、ユーラシア大陸最西端のポルトガル・ロカ岬。チェコ出身のライカ(22)は、岩壁に座っていた。「風が気持ちいい」。ショートカットの黒髪をかきあげ、潰れかけのペットボトルに入れた水道水を口に含む。

午前中に岬を覆っていた雲は東に流れ、大西洋には青空が広がっている。太陽と向かい合う石碑には、ポルトガルの詩人・カモンイスの詩が刻まれる。「ここに地果て、海始まる」。最果ての地に、旅人たちは〝何か〟を求めてやってくる。

ライカはヒッチハイクでたどりついた。故郷を離れて1カ月。25キロあったバックパックの重さは、テントや衣服など、いらないものを減らすうちに13キロになった。「家族は理解してくれないけど、いまも将来も、不安はない」。自分に言い聞かせているようだった。

ポケットにたたんだポルトガルの地図を広げ、「きょうはここで寝るの」。ライカは海岸沿いを指さす。「君はとても自由だね」。29歳の僕が思わず言うと、ライカは首を横に振った。「私は、じゃない。私たちは、でしょ」。僕たちはビール瓶を合わせる。「ナズドラビー」とチェコ語で、「カンパイ」と日本語で。

ロカ岬は、東京から直線距離で1万1150キロ。旅をめぐる旅に出ようと、僕が自らバックパックを背負ってから、13日がたっていた。

旅人たちの交差点/道中記2

photo:Fujiwara Gakushi


船を照らす太陽が、一瞬、隠れた。

6月12日、トルコ・イスタンブール。アジアとヨーロッパを隔てるボスポラス海峡で、僕の乗る船は両大陸にかかる橋の下を通り過ぎた。南北に約30キロのボスポラス海峡の幅は、最も狭いところで約700メートル。視界は両岸をとらえる。

船首部分に止まっていたマウンテンバイクをスマートフォンで撮影する女性がいた。「私の相棒。ちょっと休憩させてる」。イギリス人のベス(22)。シェフィールド大時代の同級生ジュリア(21)と、自転車で旅をしている。

2人は昨夏卒業し、ベスはマーケティング会社に就職した。が、お金を稼ぐためだけに働いている気がしたという。「もっと人生経験を積んで、本当にやりたいことを見つけたい」。ロンドンを出発したのが4月中旬。予定では来年1月、ジュリアの親戚がいる香港に着く。9カ月、1万6000キロの長旅だ。

食糧問題に関心があるという2人のプロジェクト名は「車輪上のフォーク」。行く先々で、廃棄される食材を店からもらい、スープを作って貧しい人に路上で配るなどの活動をしている。カフェなどでタブレットやスマートフォンを無料Wi-Fiにつなぎ、ホームページやフェイスブック、ツイッターで近況を報告する。宿泊は主にテントだが、民家に無料で泊まる「カウチサーフィン」も利用している。

ネットのない旅は考えられる? 「難しいね。情報収集も家族との連絡もできない。せっかくのプロジェクトも、シェアできないし」

photo:Fujiwara Gakushi

東へ行く旅人がいれば、東から来た旅人もいた。

ロシア人のアントン(35)。世界遺産の「ブルーモスク」の床に、高さ1メートルほどのバックパックを置き、天井を見つめる瞳が印象的だった。英語はほぼできない。翻訳サイトを介し、僕たちはカフェで1時間ほど話した。

リスタートの旅だ、とアントンは言った。昨年、勤め先が倒産し、妻とも離婚。4月末、1万円にも満たない全財産を持って、一人で故郷のノボシビルスクを飛び出した。

アントンはカフェでコンセントを探した。「アイフォーンを充電したい」。故郷にいる3歳半の長男と、スカイプでテレビ電話をするためだ。写真を見せてくれる。「かわいいね」。そう言うと、アントンは初めて白い歯を見せた。

行き先を尋ねた。「私は明確なルートを持っていません」。翻訳サイトが告げる。アントンは一言ずつ、英語で付け加えた。「お金はない。きょう寝るとこ、旅いつまで、わからない。でもお金がない方が、お金あるよりも良い。自分が何者か、よくわかるから」

日本人宿に集い、語る/道中記3

illustration:Geoff McFetridge


今回の半月間の旅は、世界中をめぐった旅の達人から、「たくさんの旅人に出会える」と薦めてもらったルートをたどった。日本人バックパッカーの話を聞くため、パリでは日本人宿に泊まった。朝夕2食ついて1泊約2800円。「ドリームハウス」という名の宿には、日本人だけが25人ほど集まっていた。

到着した13日は部屋が足りず、リビングで4人並んで雑魚寝。消灯後、暗闇にぽつぽつ、と光が漏れる。聞くと、スマホでSNSやゲーム、日本のニュースチェックをしているのだという。事情があるのかもしれないけど、旅という非日常に身を置いているのに、なぜ消灯後まで日常とのつながりを求めるんだろうか。

翌日の夜、宿のリビングで週1回の「ワインパーティー」が開かれた。僕を含め、6人の旅人がテーブルを囲む。日本酒の営業を兼ねてヨーロッパを回っているという酒蔵の6代目、フランス料理の本質を知りたいとワーキングホリデーに来ていた料理人……。それぞれの旅人に、それぞれの旅の理由があった。

関西で日本語教師をしているという白髪の男性(63)は「生きる勇気を見つけて、伝えたかった」と言った。

photo:Fujiwara Gakushi

我が子のようにかわいがっている30代の親戚が昨秋、余命1年を宣告された。「自分にしてやれることは何か」。考えた末、「サンティアゴ巡礼」の800キロを歩くルートへの挑戦を決める。ひざが悪く、若者のように歩くことはできない。だが杖をつき、40日以上かけ、歩ききった。

出会った旅人の出身地は29カ国に上ったという。巡礼中につけていたブログにこんなことを書いた。「みんな何かを背負って歩いている。時と場合によっては、踏ん張るしかない」。病床の親戚からは「尊敬してるよ」との声が届いた。

男性は翌日、日本へ帰国した。「歩いたら歩いた分、それがその人の歴史になる」。男性の言葉を、僕はこの旅の道中、ずっとかみしめることになる。

海の男とストリートミュージシャン/道中記4

photo:Fujiwara Gakushi

パリからバルセロナへの交通手段として、僕はLCCを選んだ。魅力は3000円ちょっとという安さ、のはずだった。「バッグの機内持ち込みは規定サイズの大小2個まで」。その規約に気づいたのは出発する当日。サイズオーバーなら、7000円もの料金が発生する。本末転倒だ。

パリ近郊の空港に着き、僕は荷物の大部分を床に出す。服はきれいにたたんで空気を抜き、ゴミは捨てた。お土産用に買ったクッキー12箱セットは、このときにへこんでしまった。本当はサイズオーバーだったけど、職員は「セ・ボン(いいですよ)」と笑って通してくれた。

翌朝、世界遺産のサグラダ・ファミリアへ。聖堂内でくつろいでいると、写真を撮ってくれと頼まれた。一人で来ていたトルコ人航海士のゴヘル(30)。コンテナを下ろし終え、ここにやってきた。写真は婚約者に送るのだという。

海を仕事場に選んで7年。「でも、辞めようかなって」。一年の半分近くは家におらず、結婚に踏み切れない。「いろんな国の思い出をケータイでしかシェアできないなんて、もう嫌なんだ」。毎月の電話代は2万円近く。「生きるための旅は、意外とつらいもんだよ」。韓国人カップルの姿をじっと見つめていた。

生きるための旅。バルセロナでは、同じことばを発する旅人にもう一人出会った。ストリートミュージシャンのイアン(39)。地下鉄の駅近くの交差点で、砂まみれのテントやギターケース、大きなバックパックを抱えていた。マドリード出身。ヒッチハイクで旅をしながら、日銭を稼いでいる。飽きられないよう、移動をくり返しているのだという。

20代の頃、レストランのウェーターなども経験した。だが、イアンにとっては「音楽がすべて」。

僕は一曲リクエストする。ただ、ビデオも写真も撮らないでくれ、とイアン。「今はみんな撮りたがる。けど、俺の音楽は路上で生きている。コンピューターの中じゃない。だから、ちゃんと聞いててくれ」

スペイン語なまりで響くボブ・ディランの「ミスター・タンブリン・マン」は彼の生き方そのもののように思えた。

なぜ、巡礼を?/道中記5

photo:Fujiwara Gakushi

バルセロナから夜行バスに揺られ、6月20日早朝にスペイン北部に入った。さらに路線バスを乗り継いで40分のところにある小さな町、ビリャフランカを目指す。「サンティアゴ巡礼」をともに体験しようと、世界一周の旅に出て1年半になる藤井正之(32)とこの町で待ち合わせをしていた。

が、10キロほど寝過ごしてしまう。折り返しのバスもすぐにはこないらしいし、タクシーも見当たらない。僕は決意する。人生初のヒッチハイク、だ。

運良く1台目、プジョーのバンが止まってくれた。グラシアス! 運転手の名はメルキ、55歳。僕は日本から持って来た5円玉を渡す。「これは、ご縁。日本語で、良い関係」。メルキは「グラシアス、アミーゴ」と笑った。

20分で約束の町に着く。まもなく、肩まで伸びた髪をバンダナでくくり、真っ黒に焼けた日本人男性が現れた。藤井だ。固い握手を交わす。

藤井は巡礼10日目。スペインとの国境に近いフランスの街からピレネー山脈を越え、キリスト教の聖地「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」まで西へ800キロのルート。「旅人と知り合いながら、自分の足で1カ月歩く。その過程で得られるものがあるんじゃないかって」

歩きながら、僕は藤井の身の上話を聞く。高校卒業後、大企業に就職。一方で資格の勉強を始めたが、行き詰まった。気分転換にと立ち寄った書店で世界一周本に出合い、「いつか」と夢見た。

そして、公認会計士の資格を得た後、一昨年11月に出国。インドでは食中毒になり、バングラデシュでパスポートなど貴重品一式を、アルゼンチンではデジカメを盗まれた。「まだあるのは、眼鏡ぐらい」。それでも──。「旅に出て、ほんとによかった。ジャングルみたいに多様性がある世界で、何でも受け入れる寛容さと、どこでも生きていけるという自信が身につきました」

11.5キロ歩き、「アルベルゲ」と呼ばれる1泊1000円前後の巡礼宿に着く。汗だくで見上げた青空は、どこまでも青かった。

最果ての岬で、出会った/道中記6

illustration:Geoff McFetridge

巡礼宿で、ドイツ人の老夫婦やスロベニアの警察職員たちと夕飯を食べた。電子機器をいじる元気はない。ふだんの何倍も歩き、腹いっぱい食べ、存分にしゃべった。日が落ちる前には、みな眠りに落ちていた。

翌朝7時に出発。両足に水ぶくれができている。「バスに乗れば」。藤井の気遣いは嬉しかったけど諦めたくなかった。歩いた分しか道はできない。

9時間かけ、27キロの道を歩ききった。大聖堂で知られるブルゴスにたどり着く。藤井とはここでお別れだ。巡礼者の合言葉を互いに交わす。「ブエン・カミーノ(よき道を)」。藤井は巡礼の道を遠ざかっていった。

再び夜行バスに乗り込み、最後の地へ向かう。

西へ西へとバスは細い山道を走り、ユーラシア大陸の果て、ロカ岬に着いたのは、約20時間後のことだった。

ストックをつきながら歩く老夫婦に出会った。東大名誉教授で、第1次南極観測隊の隊員だった中村純二(91)とあや(86)。定年後、毎年夏に3カ月ほど旅に出る。ロカ岬は約20年ぶり。「すっかり変わりましたね。以前は灯台しかなかったのですが」。旅の魅力を尋ねる。「新しい土地、新しい人。いくつになっても、発見があります。もうじき歩けなくなるかもしれませんが、ゆっくりでも歩いて、ぶつかっていきたい」

photo:Fujiwara Gakushi

ビールで乾杯したライカとは、帰る前の日に会った。名を聞くと、彼女はノートに〝Leika Sonf lower〟と記した。Sunf lower(ひまわり)と書きたかったのだと、後から知った。チェコ出身の22歳。「海がお風呂、森がベッド」。カフェなどをめぐり、廃棄する食べ物をもらってしのぐ。必要最低限の連絡は、まちの図書館のパソコンを利用する。出発から1カ月で使ったお金は1万5000円程度という。

僕たちは岩壁に座り、3時間ほど話した。「一人で旅をしてるけど、お金もないけれど、私、孤独を感じたことはない」。ライカはそう言った。

そう、決して一人じゃなかった。

ヒッチハイクでビーチに向かうライカを見送った後、僕は帰りのバスに乗り込み、A5判約160ページのノートを見返す。旅人たちの名前や、言葉や、表情が、景色が、びっしりと書き連ねられている。

僕は目を閉じ、心地よい揺れに身を委ねた。バスは細い山道を戻っていく。東へ東へと。

イスタンブールからロカ岬まで。藤原学思記者が約2週間の旅の途中で撮影した動画を短くまとめてみました(撮影:藤原学思、機材提供:BS朝日「いま世界は」)

現代の旅

photo:Fujiwara Gakushi

現代の日本には、身近に「外国」があふれている。街には多国籍の料理店が並び、欧米ブランドやアジアテイストの服飾雑貨店がひしめく。ないものはネット通販でお取り寄せ。地球の裏側にいる人とでも通信でき、動画や音声を交えた世界の情報にリアルタイムで触れられる。

味覚も視覚も聴覚も、手元に引き寄せられる時代にある。それでも、人は海外に出て人と交わり、その国の文化の手ざわりを確かめようとする。

日本人が海外へ自由に旅に出られるようになったのは、東京五輪が開催された1964年だ。その後、好奇心旺盛な若者たちが、欧米のスタイルに倣って冒険的な旅に出はじめた。最低限の生活品を詰め込んだカバンを背負い、長く旅を続けるために安宿を泊まり歩くそのスタイルは「バックパッカー」と呼ばれた。

それから半世紀が過ぎた。より豊富な情報を携え、賢い移動や宿泊の手段を探ることを可能にした情報通信革命の恩恵は、先進国にとどまらず途上国へも広がりつつある。